第10話 過去
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屋上には誰もいなかったはずだ。
なのに、恐る恐る振り返ると、そこには白衣の男性がごく当たり前のように立っている。
「ふむ、時間通りだな。分かっていたことではあるが」
「……!」
白衣の男のつぶやきに、僕は身構える。
こいつ、僕たちがここに来ることを知っていたのか?
白衣の男はうすく笑う。
「安心したまえ、葉巻和彦君に三峯燐君。彼女が君たち二人をここに連れてきたのだろう。私の指示によるものだ。君を適切に導くためにね」
「あんたの名前は?」
「名乗る必要はない。それは自ずと君自身が知ることになるからな」
「はあ?」
未来の燐といい、シュタイナー教授といい、この白衣の男といい……誰も彼も、僕の都合なんてお構いなしで言いたいことだけ言うんだな。
でも、僕と燐のことを知っているとなると……どう考えても委員会の関係者としか思えないが。
「誰なのかも知らないあんたに、なんでそんなことされなきゃなんないんだよ」
「まあ、それももっともな意見ではあるがね」
白衣の男は苦笑するが、特に意見を変えるつもりはなさそうだ。
「ここは一般財団法人日本遺伝科学研究センターと呼ばれる場所だ。五条沃太郎、三峯燐、轟銀の三名の天使が生まれたところであり、日本において初めて天使という存在を確認した場所でもある。君たちの時代からすると……十年ほど前のことになるな」
「遺伝子研究所……本当、なんですね?」
燐の問いかけに、白衣の男はうなずく。
「そうだ。ここの設立には独立行政法人遺伝科学機構の関与が確認されている。まもなく轟銀の暴走により、ここは崩壊することとなるが……その後、遺伝科学機構と、同じく独立行政法人である原子力研究機構が内閣府直下で統合され、内閣府多次元時空保全委員会となるのだがね」
「……ッ!」
燐が硬直し、ひゅっと息を吸い込む。
「来たまえ。案内しよう」
僕らの混乱や疑問など意に介さず、白衣の男は背を向けて塔屋の扉へと歩き出す。
「……」
「……」
僕と燐は顔を見合わせ、どちらからともなくうなずき合う。
僕はまばたきをして視界を蒼く染める。
白衣の男に悟られるわけにはいかない。無言のままで白衣の男へ手をかざし、男のすぐ背後の空間の深さを変化させて重力を操ろうと――。
「……くっ」
――しかし、僕がいくら力をこめても、空間の深さはまるで硬化したかのようにびくともしなかった。
空間に満ちる力を感覚してみれば、すでに白衣の男の意志に支配されていて、僕の力程度では干渉できる余地がない。
「そんな」
白衣の男がゆっくりと振り返る。その瞳は特段の感情がうかがえず……かすかに蒼く色づいてはいるものの、輝いてすらいなかった。
この空間には、僕が割り込む余地のないほどに白衣の男の意志で満ちているというのに。
「疑問も疑念も正しい反応だ。背後から攻撃しようと考えるのもね。しかし、分かっただろう。今の君の力では、私には通用しないよ」
「だけど……」
「私は君たちを騙すつもりも攻撃するつもりもない。知りたい情報のほぼ全てを提供できる。素直についてきてくれると、私としても楽なんだがね。時間は有限で、無駄にはできない」
再度、燐と視線を合わせる。
名前一つ名乗らないくせに、なにが「知りたい情報を提供できる」だ。
「だけど、あんたの言葉の……何が信じられる」
「……ふむ。それもまた一理あるか」
そう言って白衣の男は塔屋に向き直り、扉を開ける。
「しかし、私の言葉が信じられないのならばなおさら、ついてきてその目で直接確かめるしかないのではないかい。ここに銀が本当にいるのかどうかは、彼の力を知っている君なら容易に判断がつくはずだろう」
「それは……」
確かに、その通りだ。
轟銀。光子を操る第二項の天使。
ここが本当に十年前だったとして、彼がその力を行使すれば僕には間違いなく分かる。
だけど……なんていうか、目の前の男のうさんくささがぬぐえない。
「私たちの安全は、保証されますか?」
燐の問いかけに、白衣の男はうすく笑う。
「ああ、もちろんだ。君たちは死なないさ。そうでなければ私はここにいないしね。シュタイナー教授もそう請け負っただろう?」
「なんのことですか?」
「ちょっと待てよ、それをなんで知ってる?」
怖気が走る。
確かに、シュタイナー教授はついさっき言っていた。正確には「僕は死なない」ではなく「僕を殺すことは不可能」だったが。
ともかく、それは僕とシュタイナー教授だけしか知らないはずの言葉で、未来の燐も……知るはずがない。だから、白衣の男には絶対に知りようのない言葉なのに。
「ふふ。なぜ知っているか知りたければ、ついて来たまえ。答えがすぐに提示することはないが……最終的にその意味は理解できる時がくる」
彼の指示に従う以外の選択肢がことごとく潰されていく感覚に、どこか納得がいかない。
だけど、現状での最善手は確かに白衣の男についていくことのようだ。
当時の轟銀……あいつに本当に会えるなら、地震の時の犠牲者を減らし、つかさを救えるのだ。
「ああもう……くそっ。分かったよ。ついていけばいいんだろ」
「その通りだ。分かってもらえて嬉しい限りだ」
気楽そうに軽く手を振り、白衣の男は扉の向こうへ消える。
「……ごめん、燐」
「いいえ、私は」
「でも、あいつの話が本当なら……見ない方がいい」
白衣の男によれば「まもなく轟銀の暴走により、ここは崩壊する」のだ。その時にこの遺伝子研究所でのそれまでの全てを失った燐にとって、その出来事はトラウマのはずで……これから起こることは要するに地獄の再体験だ。僕にとっての……二度目のつかさの死を経験することど同義ではないだろうか。
そう思っての謝罪だったのだが、燐はいつも通りにうなずいて見せる。
「和彦さんの決めた道なら、私は隣を歩きます。その道に私が異を唱える道理などありません」
その言葉が強がりかどうか……僕には分からなかった。
「それはなんか……大げさだけど」
「そんなことありません。なにがあっても、私は和彦さんの味方です」
「いやだから、それが大げさなんだって」
「えへへ」
燐が急に僕の腕に抱きつく。
「ちょ、ちょっと」
「行きましょう。確かに、なにがどうなるか分かりません。でもそれって、普通のことで、当たり前のことなんです。これからあの時の絶望をまた見るというのは、確かに恐ろしいと思います。でも……和彦さんもこの前、同じ経験をしたじゃないですか」
「!」
驚いて燐と目を合わせる。
僕があの地震を再体験し、つかさの死を二度も見たこと。それを燐に置き換えたら、轟銀の暴走によるこの施設の崩壊だろうと思っていた。燐も、僕と同じことを考えていたのだ。
「だから私はせめて……和彦さんと同じ立場で、和彦さんの味方でありたいんです」
「そうか」
「はい。誓って」
「……」
思った以上にストレートで、思った以上に誠実な燐の言葉に、僕はうじうじ悩んでいる自分がどこか情けなくなってしまう。
「ありがとう。燐が……いてくれてよかった」
そう告げて、僕は扉へと向き直る。
「行こう」
「……」
「?」
返事をしない隣の燐を見ると、なぜかぽかんと僕を見返してきていた。
「燐?」
「は、はい! えと、その、何でしょうか? ああっ、ええっと……なんでもないですから!」
「……」
聞き返した僕にハッとして顔を赤く染め、わたわたと慌てる燐に僕も気恥ずかしくなってしまう。ちょっと支離滅裂な燐の言葉にも何も言えなかった。
「……いやまあいいんだ。行こう」
「は……はい」
恥ずかしさをごまかすように二人でちょっと笑って、僕たちは塔屋の扉をくぐった。
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