第11話 翻弄

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 室内に入り、扉を閉めようとして……違和感。

 見れば、扉のドアノブがあったはずの場所、直径十センチメートルほどが丸くくりぬかれている。

 そんな不自然なことができる手段など一つしかない。天使の力だ。

 室内の階段手前で待っていた白衣の男を見る。

 この男は……グルーオンを操る第三項か、重力子を操る第四項の天使ということになる。その力でドアノブごと鍵そのものを消滅させたということだ。

 そして、こんな方法で扉を開けているということは――。

「あんた、この建物の人間じゃないのか」

「ああ、そうだ」

「……思ったよりあっさりと認めるんだな」

「さっきも言ったが、君を騙す理由が私にはないんだよ。たとえ君には信じがたい話に思えてもね。さ、こちらに来たまえ」

 白衣の男はなんでもないことのようにそう言うと、背を向けて階段を降りていく。

「お、おい」

 こっちをかえりみずにさっさと降りていってしまう白衣の男に、僕たちは泡を食ってあとを追う。

 踊り場で折り返すと、男は廊下の手前で立ち止まって腕時計を見ていた。

「少し待て」

「はあ?」

 ついさっきは時間を無駄にできないとかなんとか言ってなかったか?

 そう思って燐と顔を見合わせる。

 彼女も首をかしげるだけだ。

「……よし。こっちだ。早くしたまえ」

 腕時計から目を離し、白衣の男は廊下へ出る。

「なんだよ。待てって言ったり早くって言ったり……」

 愚痴をこぼしながら、白衣の男を追って僕たちも廊下へ。

 遺伝子研究所――男は一般財団法人日本遺伝科学研究センターと言っていたんだったか――の廊下は、白い壁にグレーのリノリウムの床で、いかにも無機質で殺風景といった感じだ。

 ここで研究をしている人たちはどこになんの部屋があるかなんて分かっていて当たり前なんだろう。掲示板どころか案内表示のたぐいも一切ない。機能性だけを追求し、それ以外は不要だと切り捨てている冷酷な感じさえする。

 掲示板や案内表示がなく、床もほこりや汚れ一つ見当たらない。明らかに人が使うための廊下だと――白衣の男の態度からして、人が確かにいるようだし――いうのに、まるで人の気配を極限まで削ぎ落としたみたいな感じだ。何もない殺風景な廊下というのがここまで薄気味悪いとは思わなかった。

「どんなことでも、適切なタイミングというものがあるのさ。君がこれまでに経験してきたことにも、意味がある」

「何が言いたいのか分かんねーよ」

「……ふふ。天原つかさの死は、君の今後を決定する上での重要な要素となっている、ということだよ」

 白衣の男の言葉に、僕は目を見開く。

「テメェ……ッ!」

「和彦さん、落ち着いてください」

「いいや、黙ってられるか。こいつは――」

 言葉を続けられないまま、怒りに任せて力を使おうとする。が、やはり空間の支配は少しも奪えず、これまでのように重力を操ることなどできなかった。

「クソッ」

 天使の力は使えない。

 それなら殴り飛ばしてやる。

 そう思って僕が拳を振り上げると、燐は僕が振り上げた腕に手をかけて引き留めてくる。

 思わずきっとにらみつけるが、燐は小さく首を振る。

「ここが本当に十年前の遺伝子研究所なら、騒ぐべきでは……ないはずなんです。怒る気持ちは私にだって分かります。けれど、今は……」

「……」

 確かに……その通りだけど。

 今、僕たちはこの遺伝子研究所に潜入している立場だ。僕たちがここにいることが露見するのはまずい。

 潜入したにもかかわらず轟銀を見つけられなかったら、こんなことに巻き込まれるのは余計なトラブルにでしかない。この時代に来たからには、得られるメリットを手放してバカなことをやる道理なんてない。

 ……理屈の上では。

 そうは言っても、納得出来るかは別問題だ。

 この男の言葉は、つかさの死を肯定しているも同然だったのだから。だから、許すわけにはいかない。

 それでも……激情を押さえつける必要がある。僕はそうやって……自らに言い聞かせた。

「……クソ」

「ふふ」

 思い止まった僕に笑う白衣の男。

 僕は振り抜きはしないものの、拳を強く握りしめる。それに併せ、僕の腕を抑える燐の手にも力がこもる。

「覚えてろよ。これが終わったら一発ぶん殴ってやる」

「はは、やってみたまえ。時が経てば私がこう言った意味さえも理解するさ」

 僕の葛藤など意に介した様子も見せず、白衣の男は廊下を曲がり、その先の階段を降りていく。

「……クソッ」

 振り下ろせなかった拳を降ろし、仕方なく白衣の男を追う。

「すみません、和彦さん。出すぎた真似を――」

「――いいんだ。ありがとう」

「はいっ」

 燐の返事は、少しだけ嬉しそうにはずんでいる気がした。

 燐は正しかった。冷静でいられない僕の方が間違っていたのだ。僕はいつでも冷静に、冷徹に物事を考えられるようにならなければならない。

 死んでしまった天原つかさを本当に救いたければ、倫理や道徳にとらわれることさえやってはいけない。

 僕は……間違っていない。そのはずだ。

 それから僕たちは、白衣の男に不審を抱きつつもついていった。

 男は腕時計を見ながら、時おり立ち止まり、時おり引き返しながら廊下を歩き、階段を降り、エレベーターに乗って進んでいく。

 歩いた時間はせいぜい二十分くらいだろう。けれど、僕の方向感覚は早々に狂い、建物のどの辺りを歩いているかなんてさっぱり分からなくなっていた。ただ分かるのは、僕らはおそらく地下にいるのだろうということだけだ。

「……あんた、外部の人間だって言ったよな?」

「そうだが、それが?」

「いや、誰ともすれ違ったりしないし、誰かを遠目に見ることもないから、不自然だと思っただけだ」

 怪しい、信用できない、というのはもういまさらだった。

 仮に白衣の男が僕を陥れるために騙していたとして……天使とはいえ、それ以外は単なる高校生でしかない僕に、そんなことをするメリットなど思い浮かばない。

 天使の力ではこの男には敵いもしないのだから、僕を殺そうと思っていたらこんな手間をかける必要なんかない。僕を見つけた瞬間、僕が気づきもしないうちに殺せたはずなのだから。

「この建物の構造はもとより、この時間軸において誰がどこを通るかは事前に調べてある。立ち止まったり引き返したりしたのは、この建物の人間とはち合わせしないようにしているからだ。私に合わせて動けば誰とも会うことはない」

「そこまでしたのか」

「君の案内をする他に、私にもやることがあるのでね。まあ、銀の暴走直前であることを考えれば、職員の一人や二人、見つかったところで……たいした問題ではないだろうが、だからといって手を抜いていいということにはならないのでね」

「……」

 白衣の男が“彼らはこれからまもなく死ぬ人間だから”という言葉を省略したことに気づき、燐が顔をこわばらせる。

 そうだ。まだ誰とも出会ってはいないが、この施設にいる人は――それが何人くらいなのかは知らないが――燐の所属する第四項対策室の四人と轟銀以外は、轟銀の暴走により命を落とすのだ。

「それは……その運命は、変えられないんですか?」

 燐の問いに、白衣の男は肩をすくめる。

「さてね」

「投げやりだな」

「これはすでに起きたことだ。君はすでに経験さえしている。とはいえ……変えようと思えば変えられると、私はそう“信じて”いるよ」

 白衣の男がうそぶく。

「あのなあ」

「私たちにとっては、大事なことなんです!」

「……知ってるさ」

 白衣の男は悲しそうに笑って見せる。

「この遺伝科学研究センターの崩壊について言えば、私は被害を止めるつもりはない。干渉するつもりがない、と言い換えてもいいな」

「なぜですか」

「この遺伝科学研究センターは、ここで集積された天使の情報を秘密裏に国外へと売却しようとしている。東欧の諜報機関にアメリカのベンチャー企業、北欧のNGOと見境なしだ。この時期に天使についての情報が世界中に拡散されると、私としても少々困ったことになる。それを防ごうと思うと……この施設が轟銀の暴走によって崩壊するのは、私にとってとても都合がいい」

「しかし……違う方法もあるはずです」

「そうだろうな。だが、勝手に崩壊してくれるというのに、余計な労力を費やすほど私には時間的余裕はないのだよ」

「……」

「……」

 有無を言わせぬ口調の白衣の男に、僕たちは反論できない。恐らく、どんな説得をしてもこの白衣の男に轟銀の暴走を止めてもらうことはできないみたいだった。

「……さて、ずいぶん時間がかかったな。ここだ」

 白衣の男は急に立ち止まってそう言うと、通路の右側にあるなんの変哲もない扉を開けた。


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