第14話 次元


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 マジックミラーの向こうでまた青方偏移した次元光放射が発生、“炎の剣”が放たれる。

 銀の周囲の研究員たちがざわめいて、手元のクリップボードに何かを書き留めている。

「いやあああ! やめてええええ!」

「もう一度、もう一度だ!」

「こんなとこ嫌だ! 誰か助けて!」

 空間深度がさらに不安定になる。

 そして、不安定になると同時に彼自身の制御力もまた低下していく。

 ……いや、低下していくというよりは、扱い慣れない力の前に、振り回されている。

 銀は天使の力を自覚したばかりだ。その上、制御方法を教えてくれる師もおらず、研究員たちはあろうことかさらなる苦痛を与えてくる。……そんな状態で力を制御する方法を把握できるはずもない。

「いったいどうやってコントロールしているんだ?」

「この魔法陣のようなものは……」

「しかし、人間が物理学を凌駕することなど可能なのか?」

 銀の悲鳴など意に介さず、研究員たちは口々に言いながらさらに彼を痛め付けようとしているのを見て、私は苦笑いを浮かべる。

 彼らは自分がどんなことをしているのか何も分かっていないのだから。

 例えるなら……猿に銃器を与えて「撃ってみろ」と猿の構えた銃口の目の前で叫んでいるようなものだ。猿が気まぐれに人差し指を絞れば、銃弾が自らを貫く軌道で飛んでくるというのに。

 その行為が、自らの死に直結していることなど彼らは気づきもしていない。先ほど隣で腕を切られた研究員のことを、彼らはすでに覚えていないのだろうか。だとしたら、なかなか素晴らしい記憶力の持ち主たちだ。

 この世界は、一般的には四次元時空と呼ばれる。時間軸が一次元と空間が縦横高さの三次元で、合わせて四次元というわけだ。

 しかし、現実の世界はそうではない。

 四次元以上の次元がこの世界には存在するのだ。

 それを認識し、干渉できるのが天使という存在だと言える。

 三次元以上の空間に存在する光子は、天使の力と、その瞳を通して反射することによってのみ三次元空間へと侵入する。その際、ドップラー効果と同様に光子の波長が圧縮され、青方偏移して蒼い光となって放たれる。

 魔法陣のように見える輝きさえ、単なる物理現象として説明ができるのだ。

 しかし――。

「うわあああああ!」

 悲鳴とともに、幼い銀の輝く瞳が、蒼から紅へと変化していく。

 本来、人類の脳は四次元以上の時空を認識できるようにはできていない。もともとそんな必要などなかったのだから、当然ながらそんな風に進化しなかった。

 ……正確には、仮に突然変異で多次元時空を認識できる個体が現れたとしても、それが大多数に受け継がれる遺伝的特性とはなり得なかった、と言うべきだろう。

 ともかく、天使が空間の余剰次元を認識している時、天使の脳には著しい負荷がかかっている。そんな状態で、白衣の研究者たちがしているように更なるストレスを与えてしまえばどうなるか。

 あの通りだ。

 また違う次元を認識し始め、蒼い光が紅い光へと変貌する。

 空間の余剰次元からの光子はその全てが青方偏移する。ではあの紅い光はなんなのか。

 紅い光を放っている時、天使はまた違う次元を覗き込んでいる。

 空間の余剰次元であれば、光子は青方偏位する。紅い光は……時間の余剰次元を認識している証だ。

 時間の余剰次元を経由して放たれる光子は、擬似的な時間経過によりドップラー効果が起きる。しかし、空間の余剰次元の時とは逆に波長が引き伸ばされ、赤方偏移して紅い光となって現れるのだ。

 そして、時間の余剰次元を認識している天使は、空間の余剰次元を認識している天使よりもよほど強い負荷がかかっている。普通の天使ならば簡単に暴走してしまうほどに。

 時間の余剰次元。

 時間とは通常なら一次元しか存在しない。

 一次元というのは立体でも平面でもなく、線でしかない。当たり前だ。時間とは一般的に、過去から現在、そして未来へと流れ、そして過ぎ去ってしまえば戻ることのできない一過性のものだからだ。

 では、時間の余剰次元が存在したら……言い換えれば、時間が二次元になったらどうなるだろうか?

 二次元ということは、線ではなく面ということだ。そうなれば、過去や未来といった単語は意味を見失う。時間が一次元だからこそ、線であるからこそ、私たちは現在という点から手前が過去であり、先が未来と区別できる。しかし、面になってしまえば過去と未来を、現在という点では区別できなくなってしまう。面の上でとる軌道によって過去は未来になりうるし、その逆もまた然りだ。

 時間の余剰次元を認識した天使は、自らの視界が紅く染まり、その空間の過去、現在、未来の光景が入り交じった光景を目の当たりにすることとなる。

 それを知るまで、私は単純に紅の世界は暴走を引き起こすものだとしか考えていなかった。神稜地区局部地震の時に暴走した轟銀。同時刻、同じく暴走した斎藤美嘉。そして轟銀に対抗しようとした時と、つかさの死を目の当たりにしたときの私自身の経験から、そういう風にしか考えられなかったのだ。燐の力はイレギュラーなものだということにして。

 初めて時間の余剰次元をきちんと認識した時、視界に広がる光景がどのようなものになるかという予測があったとしても、私もまた頭が狂ってしまったんじゃないかと思ったものだ。

 ……とはいえ、時間が一次元から二次元へと拡張し、過去と現在と未来が区別できなくなってしまうからこそ、使いこなせれば利用できる。

 紅い世界でワームホールを形成することで、過去から未来へ、未来から過去へと移動できるのだから。

 三峯燐の力――斎藤美嘉もだが――は、二次元の時間を操るという、本来なら天使でさえ耐えられないはずのことをやっているのだ。

 この時間から見れば十年後、私の体感からすると三年前、私は改めて神稜地区局部地震に関与した。

 昔のように、天原つかさを救おうと思ってのことではない。あの時の大学側での時空の歪みがどういうものなのか、観測しようと思ってのことだった。

 思わぬ邪魔が入った。セルシオ・シュタイナー客員教授だ。

 と同時に、五条沃太郎と山崎教授の二人が作成した神稜地区局部地震のタイムラインに記されていた謎の人物である「白衣の男」が私自身だったのたと、そこでようやく悟った。

 結果、セルシオ・シュタイナーとの戦闘に気を取られた私は、斎藤美嘉の覚醒により生じた特異点に巻き込まれ、予期しない時代へとタイムスリップしてしまった。

 詳しく調べた訳ではないが、あの場所はどうやら四世紀後半のイラン高原の辺りのようだった。ササン朝ペルシアの支配地域だったところだ。

 意図せずして集まった天使である私たちは、タイムスリップした先で斎藤美嘉の力を調べることで、それまでの私には不可能だった時間の余剰次元への干渉方法を――紅の魔法陣を操る手法を――確立した。

 シュタイナー教授がアンジェリカと呼んでいたあの女性は、私に対する敵対心を隠そうともしていなかったが……その研究そのものには手を貸した。私に本心を語ることは決してなかったが、時間の余剰次元の干渉方法というのは、少女もシュタイナー教授との再会のためには知りたくてたまらないことだったのだろう。

 でなければ、アンジェリカは私を止めるという信念を曲げ、休戦して研究を手伝うことに同意などしなかっただろう。

 私と斎藤美嘉とアンジェリカの三人で行った実験による事故に巻き込まれなければ、彼女も私と同じように時間の余剰次元を使いこなせるようになっていただろう。そうすれば、シュタイナー教授と再会できただろうに……今度はいったいどの時間軸へと飛ばされてしまったのか。恐らくは未来のはずなのだが。

「があああっ!」

 瞳を紅く輝かせ、銀が拘束されたベッドの上でのたうち回る。

 あのままでは、彼は数十秒で精神のタガが外れ、暴走してしまうだろう。

 暴走した状態で精密な制御などできるわけがない。仮にワームホールが展開され、同じ空間の違う時間軸へと扉が開いたとしても、更なる破壊をもたらすだけだ。そのワームホールが人類が生存可能な場所に繋がることなど……可能性は一応はゼロではないが、ほとんどゼロと変わらない確率だ。

 神稜地区局部地震の時の斎藤美嘉のような事例もあるが、あれは例外と言っていいだろう。一旦彼女の暴走が落ち着き、多少制御ができていたことと、ワームホールの向こう側にいたアンジェリカがこちらの時間軸に繋げようと干渉していたことが影響しあった結果だ。

 ともあれ、この遺伝化学研究センターも銀の暴走であと十数分で消失するわけだ。

 その前にここでの天使に関する研究データを全て持ち出してしまおう。

 ここでやっていた実験は見当違いのものも多いが、だからこそ通常では得られない情報も多いはずだ。データの回収にしくじれば、この遺伝化学研究センターにある情報は失われる。そうなれば、ここと同等のデータを手に入れるために、同じような実験を私も行わなくてはならなくなる。それ自体はどうということでもないが、それにより数十年のロスが発生するのはなるべく避けたい。

 紅い魔法陣が展開。それまで手のひら大のサイズだったが、今度はそれよりも大きい。

 紅い光が時間の余剰次元によるものであったとしても、作用するのは重力子だ。発現するのはほとんどが元々の天使の力と同じだ。

 ――とはいえ、本格的な暴走の始まりだが。

「これは、大丈夫なのか?」

「それは――」

 ここまで来てもなおまだ実験と称した虐待を行っていたが、言いかけた研究員の頭部が“炎の剣”で消し飛ぶ光景に他の研究員たちも凍りつく。

 首の断面は瞬時に炭化したのか、血も流れないまま、頭部を失った身体は二、三秒は立ち尽くし、やがてその場にくずおれる。

 そんな光景を目の当たりにして、他の研究員たちはようやく顔を青ざめさせ、視線を交わし……唐突に我先にと逃げ出し始めた。

 これまでは研究による興味が、恐怖を上回っていたわけか。

 愚かなものだ。他人の片腕が切り落とされたり、建物が破壊されたりと色々と被害が出ていたというのに、人が一人死ぬまで身の危険に気づきもしないとは。

「――そろそろか」

 研究員がいなくなったのを見計らい、私は第四項の力を限定解放。蒼の魔法陣が展開するとともに重力子の塊をマジックミラーに叩きつけて粉砕。重力子の影響でマジックミラーの割れた欠片がその場で浮遊するなか、私もその重力子を利用して窓をふわりと越え、実験室内に侵入する。

 ベッドが五台並んでおり、そこで寝かされている子どもは四人。銀は一番左端だった。

 銀のベッドに近づき、床に転がる端末を拾い上げる。逃げていった研究員が落としていったものだろう。私からするとずいぶん旧型の端末だが、当時は最先端の機器だったに違いない。

 私はそれを小脇に抱え、ベッド脇のモニターへと向かう。

 画面にはヒビが入っているものの、銀のバイタルが表示されており、少し操作すればここでの研究記録がほとんど閲覧できるのが分かった。周囲にはうっそうとした森林しかない山奥の建物だ。第三者の侵入などあまり想定していないのだろう。ここにある機器も、ウェブには接続されていないクローズドネットワークが構築されているようだ。おかげでこうやって内部に侵入できてしまえば、研究センター内のデータにはフリーパスで閲覧できる。私のような人間さえいなければ、なんの問題もないシステムだっただろうに。

「がああああっ!」

 銀の絶叫とともに幾度目かの“炎の剣”。私にはそちらを見る必要などなかった。紅い魔法陣――赤方偏移した次元光放射――の展開した規模と角度から、“炎の剣”の軌道は予測可能だ。

 私が軽く手を振って重力子を集めると、放たれた“炎の剣”は重力子の場の影響により、軌道が変化。私を袈裟懸けに斬り上げる軌道だったものが、明後日の方向を向いて拡散、蒸発していく。

 あの時……初めてタイムスリップしたとき、初めて天原つかさを救おうとした試みの時にここまで正確にコントロールできていたら……。

 いや、そうしたら、私はいまごろ平和ボケした馬鹿な男のまま、天原つかさと一緒にいたのだろう。こんなことをやろうとも思いつかなかった。

 ……まだ、未練があるというのか。

 内心だけで苦笑し、私は懐から小型の記憶端末を取り出してモニター下の旧式の端子に接続する。

 多次元時空保全委員会に用意させた代物だ。接続すると、端末内のプログラムが自動起動。自動で相手のネットワーク内のデータをまるごとコピーする。

 この施設のシステムにもウイルス対策ソフトのようなものが入っているだろうが、こちらにはなんといっても実時間で二十数年もの時間的アドバンテージがある。当時の最新技術で守られたセキュリティであっても、楽々に突破できる。現に、モニターにはすでに「バックアップファイル作成中」というポップアップが出ていて、現在十四パーセントで進行中だ。さすがに通信速度は相手の機器に依存してしまうので、そこまで早くはならない。完了前に銀に破壊されてしまわなければいいが……。

「なに……やってんだよ」

「ん?」

 そうしていると、背後から声をかけられた。

「何やってんだよ、お前は!」


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