第21話 エピローグ

21

「それでは、私はこれで。準備を整えたら、また調査に出ます」

 私に背を向けて部屋から出ていこうとする燐に、私は声をかける。

「ああ。頼む。だが、一旦休息を取れ。無理をすれば、最終的にはロスが増える」

 私の言葉に、燐は振り返って首をかしげる。

「……では、お言葉に甘えて。和彦さんはどうされます?」

「私も疲れたからね。シャワーを浴びたら一休みするさ」

「分かりました。では、また寝室で」

 燐は先ほどとはまた違う、艶やかな笑みを浮かべて見せる。

 最近の燐は、こういう発言をためらわなくなってきたような気がする。いや……前からか。

「……私は眠るつもりなんだがね」

「心身の健康を保つためには必要なことだと言ったのは和彦さんですよ? 嫌だ、と言うのならあきらめますけれど」

 そこまで言われても拒否できるほど、私にも欲がないわけではない。

 私は両手を上げて降参のポーズを取る。燐は私の仕草にくすりと笑った。

「それでは、お先に準備をしてきますね」

 そう言って、燐は私の返事を待たずに今度こそ部屋から出ていった。

 燐が出ていき、パタンと閉まった部屋の扉を見つめ、私は苦笑してしまう。

 ……まったく、ここは健全とは言いがたい研究室だな。

 私の研究所は、神稜大学千葉キャンパス跡地にある。

 私立神稜大学とその付属高校は神稜地区局部地震発生後、間もなく経営破綻し、六年ほどで閉鎖、廃校となった。

 地震直後は民事再生法による再建を目指していたものの、地震の被害や敷地内での突出した死者とその遺族への賠償に追われ、膨れ上がった巨額の賠償金を前になす術がなかったのである。

 神稜地区はさら地になったあと、オフィスビルやショッピングモールなどの複合商業施設が建設された。地震の面影は消え去り、新たに建てられた慰霊碑だけが当時の惨状を伝えているのみだ。

 各種研究施設が集まっていた千葉キャンパスは競売にかけられ、国内、海外を問わず様々な会社や機関の手へと渡った。

 その一角、十四階建てのSRC造のビルの五階と六階の二フロアが私の研究所に割り当てられている。何十年も昔には、シュタイナー教授の研究を引き継いだ山崎徹教授と五条沃太郎教授の共同研究室もあったのだが、それはこのビルが建て替える前の話になる。その当時から、資金の出所は多次元時空保全委員会で、建物は第四項対策室本部も兼ねていた。

 私が戻ってきたのは、研究室内の二フロア分の高さをそのまま確保した、天井の高い観測室だった。

 四方と床、そして天井の全面が吸音素材におおわれていて、この部屋から外部の様子はうかがえない。室内には人間よりも大きな機械の塊であったり、パラボラアンテナのような形状のものだったり……いくつもの測定機材が鎮座している。当時の山崎、五条共同研究室主導による重力子の検出機の試作機がどれ程巨大なものだったかを考えれば、これでも相当に小型化している。科学の進歩というものは本当に恐れ入るものだ。

 私の生まれた時代と比較すると、現在はとてつもない未来だが、そういった技術の発展さえも利用しなければ、私の目的は達成できない。

 有効活用できるものはどんなものでも有効活用しなければならない。むしろ、そうしない理由がない。

 私も観測室から出て、ホコリまみれの白衣を洗濯機へと放り、身体を洗うためにシャワールームへと向かう。その途中で赤子の泣き声が聞こえてきた。

「いやぁーっ! あーっ! いやっ!」

「ああもう、明日香。お願いよ……」

 廊下の途中で、一人の女性がおろおろしていた。女性は私よりは五、六歳ほど年下だ。長い黒髪に燐とはまた違う線の細い美人で、パンツスーツの上に白衣を羽織っている。

 彼女の目の前には三歳くらいの子どもが廊下に座り込んでいて、大声を上げて泣いている。

 おもちゃかなにかを握りしめていたが、その子は泣きながら女性へと投げつける。

「痛っ! 明日香ってば、やめてったら」

 おろおろする女性に、私は近づく。

「美嘉さん、大丈夫ですか?」

「あっ……和彦さん、ごめんなさい。こんなところで……ほら、明日香。邪魔になってるから――」

「いやぁーっ!」

 途方に暮れる斎藤美嘉に、私は苦笑する。

「気にしなくていいですよ。別に誰も困ってないですし。子どもは大変ですね。なんでしたっけ……悪魔の三歳児とか言うんでしたっけ」

「……そうなんです。ここ最近はなんでもかんでも『いやいや!』ばっかりで。放り投げたくなっちゃいそうで」

「燐は手伝ってくれたりしないんですか? 私からお願いしておきましょうか」

 私の言葉に、美嘉さんはとんでもないと手を振る。

「いえいえ、そんな気を遣っていただくわけには。それに……」

「……? 燐なら喜んで手伝ってくれそうですけど」

「その通りです。ただ、明日香はどうも人見知りが激しくて……誰が来てもすぐに逃げ出してしまうんです。燐さんが挨拶してくれたときに、この子ったら全力で逃げ出しちゃって……あの時の燐さん、すごく悲しそうな顔で、いたたまれないですし申し訳ないですし……」

「……はは。燐はショックだっただろうな」

 申し訳なさそうな美嘉さんとここにいない燐には悪いが、思わず笑ってしまう。

「今は泣いてるからこうですけど、泣き疲れて我に返ったら、和彦さんからも逃げ出しちゃうと思いますよ」

「まあ、私にはそれくらいがちょうどいいでしょう。私のやろうとしていることは、きっとこの子には受け入れられないでしょうから」

 そう言いながら、私はこれから遺伝科学研究センターで子どもの相手ができるようにならなければならない事実に気がつく。

 ……そんなこと、私にできるのだろうか?

「そんな、ことは……」

 反応に困った美嘉さんが口ごもる。

 斎藤美嘉。

 神稜地区局部地震の際に天使として覚醒し、地震そのものの元凶となった女性。その後、私と共にアンジェリカのいた時代へと半強制的にタイムスリップし……私と斎藤美嘉とアンジェリカの三人で、当時はまだ知らなかった紅の魔法陣の力を、時間軸の余剰次元の研究を行うこととなった。

 研究の過程で、アンジェリカは予期せぬタイムスリップに巻き込まれてしまった。だから、彼女がどうなったのかは分からないが、わたしと美嘉さんの二人は、研究の結果として時間軸の余剰次元のコントロール手段を学んだ。

 彼女の足元で泣きじゃくる赤子は、美嘉さんと山崎徹教授の子どもだ。

 美嘉さんがこの子を生んだのは、西暦三八五年の中東で……元の時間に戻るための研究中のことだった。現代医療のない頃だ。生む苦しみ、というのは私には体感できないことだが、かなり大変だったようだ。

「美嘉さんは……山崎教授のところには戻らないのですか? 時代が違ったとしても、今のあなたなら造作もない。会おうと思えば、簡単に再会できるというのに」

 私の言葉に、美嘉さんは悲しそうにうつむく。

「私は……貴方と時間軸への干渉について調べ、干渉方法を確立する間に、貴方の望みを知りました。あの子……アンジェリカは最後まで否定していましたが、それは、私も正しいと思うんです。人類全体を等しく幸福にするには、人類の存在そのものを消すしかない」

「ええ。そう考えています」

「それを成し遂げようとするなら、時間軸を操れる天使が二人よりも三人の方が、効率は上がるのではないですか?」

「それは、そうですが……」

 そう言うものの、私はそれ以上の言葉を彼女に告げられない。

「でも、私はそれが正しいと感じると同時に、この子の……明日香の幸せを願ってもいるんです。私と徹の子が……人並みの幸せを手に入れて欲しいなんて」

「……」

「私、徹のところに帰ってしまったら、ここに戻ってきて和彦さんの手伝いをすることすらできなくなってしまいそうな気がするんです。私自身が、それをやるべきだと思っていても」

「だから……山崎教授のところには戻らない、と?」

 美嘉さんは悲しそうにうなずく。

「あなたにはあなたの意志があり、考えがある。それは尊重したい、けれど……」

 うまく言葉にならず、私は口ごもってしまう。

「けれど……?」

「山崎さんの気持ちも、考えた方がいい」

 山崎教授は、私の目の前の女性に再会するためにシュタイナー教授を師事し、物理学を志した。

 山崎教授の論文は物理学の常識を書き換え、四次以上の時空の次元についての観測手法を確立、天使の存在についてさえ、物理学を逸脱せずに予言することに成功した。

 それも全ては美嘉さんと再会するため。

 しかし……私の知る限り、山崎教授は四十代になっても美嘉さんと再会できていない。美嘉さんはすでに、会いに行こうと思えばいつでも会いに行けるはずで……今の美嘉さんが会いに行こうと思えば、幼い頃でも、神稜地区局部地震の前でも、論文執筆中でも、文字通りいつでも会いに行けるのだ。それでも山崎教授が美嘉さんと会えていないということは……。

「ふふっ。……全人類を敵に回そうとしている人の言葉とは思えませんね」

「似合わないことを言ったという点については、自覚していますよ」

 私は肩をすくめて苦笑いする。

「徹に……言われたんです。『そんなに嫌われたきゃ、世界を滅ぼしてから出直してこい』って。だから、私……」

「教授に、嫌われようと?」

「……」

 美嘉さんはうつむいて、返事をためらう。

「私が隣にいない方が……徹はきっと幸せだから」

「……」

 今度は、私が黙る番だった。

 二人の関係を、私は詳しく知るわけではない。何を言っても、余計なお世話にしかならないだろう。

 私は美嘉さんを見ることができず、視線を伏せる。足元では、赤子が――美嘉さんの娘の明日香が――ようやく泣き止み、涙とよだれでベタベタになった顔を必死にぬぐっていた。

「あー!」

 と、泣き疲れて大人しくなったと思っていたら、明日香が急に立ち上がって向こうへと駆け出していく。

「あ! ちょっとこら、明日香! どこにいくの! ……あの、和彦さん、すみません――」

 私たち二人の空気なんてお構い無しの明日香に泡を食った美嘉さんは、あわてて私へ頭を下げて我が子を追いかけていく。

 明日香が廊下の途中の扉を開けて部屋の中へ。美嘉さんも後を追って部屋の向こうへと消える。

 誰もいなくなった廊下で立ち尽くしたまま、私はぼんやりと考えをまとめる。

 ……人類の存続について、私の意思と燐の意思が大きく介在していた。けれど、おそらくは斎藤美嘉の意思さえも介在しているようだ。

 美嘉さんがすぐに山崎教授の元へと帰っていたら、今とはかなり状況が変わっていたのは間違いない。

 山崎教授は物理学を続ける理由がなくなり、それにともない世界の物理学の発展は停滞しただろう。美嘉さんがいないことで、私の計画も十年か二十年は遅れることとなっていてもおかしくはない。

 まあ、起きなかった出来事を気にすることもないか。私はやれることをやるだけだ。目的を達するためなら、利用できるものはなんでも利用するだけのことだ。

 人類は潰えなければならない。なによりも、人類自身のために。

 そのためなら、どんなことでもやってやるさ。

 私はそう決意を新たにし、その場から立ち去るのだった。




end.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フェルミオンの天蓋 Ⅱ-3〈Aeon〉 周雷文吾 @around-thunder

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る