第16話 崩壊
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バチン、となにかがちぎれる音。
おそらく、彼を拘束していたベルトがちぎれたのだろう。手足を拘束されていた銀の、幼い身体がふわりと浮き上がったのだから。光子をコントロールしていた重力子さえ暴走しているのか。
「うああああっ!」
拘束から解放された銀は、両手で顔をおおって悲鳴をあげる。
「こんなところ……めちゃくちゃにしてやる! そしたら、そしたらみんなしあわせになれるんだ!」
「やめろ銀! これじゃお前も死んじまう!」
「だからなんだ!」
紅い光の奔流が吹き荒れ、周囲の機械類も浮き上がって旋回をはじめる。
「僕が死んだって、あの子が助かれば……それで!」
紅い魔法陣が無数にきらめき、閃光がまたたく。光子を集束させることもできていないのか、それはもはや高出力レーザー“炎の剣”としての形を保っていない。
とはいえ、波長が短く人体に有害となる光子――エックス線やガンマ線――も発せられている。
私は重力子でこちらへとやってくる光子の軌道を逸らす。完全に遮ることはできないが、被ばく線量は格段に減らすことができるはずだ。
光子の軌道を変えるということは、私たちの視界が変化するということだ。そして銀から発せられた光子を私たちに届かないようにするということは、視覚によって銀の周囲の状況を認識できないということでもある。
重力子によって周囲の風景はぐにゃぐにゃにねじ曲がり、銀の姿も見えなくなる。結果として、眼前の光景はなにがどうなっているのかさえ分からなくなってしまっていた。
普通の人間ならば、立っている感覚すら分からなくなっていただろう。……とはいえ、私たちは天使だ。光子だけに惑わされず、次元を積分することで感覚的に空間を把握する術を知っている。
光子の放出が止んだのを察して、重力子を消す。歪んだ視界があっという間に元に戻る。
「もう、やめるんだ銀」
過去の私の言葉が銀に届いている様子はない。銀はどこか虚空を眺めながら、呆然とつぶやく。
「あの子の、ため……なら……」
銀の言葉にはっとする。
あの子、そうか……。銀の言うあの子というのは……。
私は三峯燐を見る。
彼女はいまだ凍りついていて、力を行使するどころか、観察室からこちらの部屋に入ることもままならないようだ。
銀の言葉は燐に聞こえているのだろうか。聞こえていたとして、その意味を理解しているだろうか。
そしてもし理解していたとしたら、どう思うだろう。
銀はこの頃からずっと、燐のことだけを思ってあの時まで生きてきたのだろう。高校の屋上で私と相対したときも、そんな話をしていた。
当時の銀自身、精神的に追い詰められて何をしでかすか分からない様子ではあったが……それでも、燐が銀をないがしろにしなければ……神稜地区局部地震の際の高校での数々の被害は防げたのかもしれない。
燐が転校生として教室にやってきたとき、銀はどれ程喜んだことだろう。そしてその燐が、自らのことなど気にも留めず、葉巻和彦ばかりを気にかけたことにどれ程絶望しただろう。
ああ、そうだ。地震当日、昼休みに屋上に行く直前、引き留めてきた銀に燐は言ったのだ。「関係ない人は黙ってて」と。
あれが、銀の精神を決定的に折ったのだ。
燐が私のことなど気にも留めず、銀との再会に喜んでいれば……。
……。
……。
私は、無意識のうちに首を振っていた。
何を今さら。
私はひどい男だ。
燐が銀を見ていれば。そういう“たられば”なら私にも当然ある。
いや、私の方が多いかもしれない。
私が燐など見向きもせず、つかさを見てさえいれば、銀は自暴自棄にはならなかったかもしれない。
私がためらわずに銀を殺していれば、高校の被害を減らせていたかもしれない。
私が燐を救おうとした時に銀の攻撃を察知していれば、つかさは死ななかったかもしれない。
五条沃太郎やセルシオ・シュタイナー教授との戦闘で油断などしなければ、大学の被害がいたずらに増えたりはしなかったかもしれない。
あの時に時間の積分を――時間の余剰次元の力を……紅の天使の力を使いこなせていれば、斎藤美嘉の暴走を防ぐことができただろう。そうすれば、神稜地区局部地震など存在しなかったかもしれない。
そして私が“人類を絶滅させよう”などと考えたりしなければ……未来において起こるであろうさまざまな被害もまた、発生しなくなる。
燐が罪深いとするなら、私は罪深いという言葉では足りないほど大きな罪があるではないか。
過去の私は、やはり――私の想像通り、そして私の過去の経験の通り――銀の暴走をいくらも抑えられていない。
銀は宙に浮いて“炎の剣”を振るっている。私が重力子で守っているのは、私自身と過去の私と燐だけだ。だから遺伝化学研究センターは“炎の剣”でズタズタに切り刻まれ、もうほとんど崩壊している。この部屋の天井が崩落してこないのは、私が重力子で支えているからにすぎない。
銀が悲鳴を上げ、過去の私が怒号を上げている。その他にも、遠くからたくさんの悲鳴が聞こえてくる。大人の悲鳴は職員で、子どものそれは燐と同じ実験体か。
銀の“炎の剣”が一薙ぎするたび、悲鳴は多重に増えていく。
その光景に、あの日……初めて経験した神稜地区局部地震でのことを思い出す。
まだ高校一年生で、地震直後に天使として覚醒し、わけが分からないまま轟銀と戦い……彼を殺し、天原つかさの安否を確かめようと校舎内をかけ降りた時。……あの当時の凄惨な光景。
廊下や教室のいたるところに、身体が切り裂かれ、瓦礫に押しつぶされ、死までの数分の間、苦痛にうめく見知った人々の姿があった。
その後、神稜地区局部地震は二度も経験したし、東欧でのテロ現場や、紛争地域などを巡った時にも似たような光景を何度も見た。
しかし、幾度となく思い出すのは、いつも高校の時の光景だった。私自身、この光景と寸分たがわぬ光景を一度見ているというのに。
ここで悲鳴を上げる彼らのほとんどが、この日に死ぬ。
それを嘆き、救おうと奮闘した少年もまた死んだのだ。
今ここにいる私は……人類に対する災厄なのだから。
この程度のとるに足らない被害など、私が手を出す必要はない。
そこまで考えて、自然とため息がこぼれて苦笑いをしてしまう。
……まったく。私はずいぶんとごう慢な人物になってしまったものだ。
聖書に記された神にも匹敵するほどのごう慢さではないか。
「やれやれ。こうするんだよ。ちゃんと感じておけ」
私はそう言って、自らもまた暴走しかかっている私自身を助けることにする。
空間を積分し、視界を蒼く染める。
空間深度の深淵から大量の重力子を放出させ、頭上の瓦礫を吹き飛ばす。
それから私と過去の私、そして過去の燐の三人を宙に浮かび上がらせた。
轟音を響き渡らせながら遺伝化学研究センターの残骸から脱出。私たちのいたところは、重力子の支えがなくなり轟音をたてて崩れ落ちていく。
地上四階、地下二階、約八十メートル四方の鉄筋コンクリートの建物は、私たちが外へと出てきてみれば、瓦礫のほとんどが地下部分に埋もれ、地面よりはすこし盛り上がった程度の高さの残骸へ変わり果てていた。
もうもうと立ち込める粉じんを重力子で押しのけ、出来上がった瓦礫の丘を避け、かつて遺伝科学研究センターの前庭だった場所へと着地する。
狭い芝生に、建物正面の車寄せや駐車場に並ぶ車両も、すべて“炎の剣”で破壊され、無惨な光景が広がっていた。
視界を蒼から紅へと変化。
空間深度が微分されて認識できなくなると同時に、今度は時間軸を積分して二次元へと拡張。重力子の影響で伸び縮みして不安定な時間を感覚する。
過去の私が干渉している時間の余剰次元を奪い、安定させる。同時に過去の私へと近づき、手をかざしてまぶたを閉じさせる。
単純な話だが、天使の力を封じるのに視界を遮るのはある程度の効果がある。私たちの力は、ある程度は視覚に依存しているからだ。
「三峯燐、彼を頼む。ここまで抑えれば、あとは君でも対処できるだろう?」
「は、はいっ!」
「頼むよ」
私の言葉に、慌てて過去の私へと駆け寄る過去の三峯燐。過去の私は瞳からの次元光放射もほとんどなく、力は沈静化されている。さすがにここまで抑えた後ならば、彼女でも大丈夫だろう。
三峯燐に過去の私を任せ、私は銀の方へと視線を移す。
頭上では銀が赤方偏移した紅い光を身にまとい、更なる破壊に身をやつそうとしていた。
私は彼に向けて手を掲げ、彼が支配していた時間の余剰次元を侵食していく。
今の私なら、闇雲に力を撒き散らす幼い銀から力を奪うのは、少々厄介とはいえ、それでも暴れる小型犬をあやすようなものだ。大した手間もかけずに時間の余剰次元を奪い、掌握する。
時間の余剰次元はコントロールが困難ではあるが、やり方が分かっていれば不可能ではない。
銀の暴走によりめちゃくちゃに乱高下していた時間を支配下に置き、正常へと戻していく。
幼い銀の周囲からは赤方偏移した次元光放射が失われ、彼自身の瞳からも輝きが失われる。
そこまで確認してから、私は過去の私をちらりと見る。
「まったく。お前に死なれたら困るんだ。しっかりしてくれ」
過去の三峯燐に支えられながら、瞳を元に戻した過去の私がこちらを見る。
「はあ……?」
私がなぜそんなことを言うのか分かっていない過去の私は、こちらを見上げて疑問符を浮かべる。彼の隣にやってきた過去の燐は、私の言葉で何かに気づいたのか、少しだけ眉根を寄せた。
頭上では、力を失った銀が本来の重力に引かれて瓦礫の丘へと落下しようとしていた。
「おいっ!」
せいぜい三メートルほどか、と思っていると、過去の私がとっさに瞳を蒼く輝かせ、落下する銀を重力子で受け止める。宙に浮いた銀を瓦礫の真上から私たちの近くまで引き寄せ、めくれ上がった芝生の上に寝かせる。
そういえばそんなことをしたな、と思い出す。
愚かなものだ。若い頃の私は、物事を適切に考え、考えた通りに行動することができていない。
まあ、仕方がない。当時の私自身がとった行動なのだから。
私は、過去の自分自身の愚かさを文字通り見せつけられ、ただため息をついた。
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