第17話 帰還
17
過去の私の目の前で、幼い銀がくたりと力なく横たわっている。
先ほどまでは黒かったはずの髪の色が、今では真っ白に脱色していた。吹き荒れる次元光放射でわからなかったが、暴走による過度なストレスか何かが、この短時間で一気に髪の色素を奪っていったというのか。
……いや、彼は第二項の天使だ。あらゆる波長の光子を操っていたのだから、毛髪に……人体に有害な波長の光子の影響と見る方が理屈に沿っているか。
「なんで……ぼく、わるいことしてないのに……」
銀は力なくつぶやき、やがて泣き始める。
「お、おい……」
「……」
泣きじゃくる銀を前に、過去の私は彼を落ち着かせることもできずに困惑の声を上げる。
燐は過去の私の肩に手をかけるものの、銀に手を出しはしない。いくら幼く、責めるわけにはいかないと思っても……彼女にとってはトラウマの元凶だ。どうすればいいか図りかねているのだろう。
「……そもそも、彼を殺すつもりでここに来たのだろう?」
「それは――」
「――暴走を止めるのも、殺せば済んだはずじゃないか。昔、彼にそうした通りにな」
「……っ!」
目を見開くが、さすがにもう何度も同じ問いを私に向けてはこない。はっきりと覚えていないが、確かこの時の私は、今の私――当時の私にとっては、見知らぬ白衣の男――のことが恐ろしかったのだと思う。
誰も知らないはずの秘密を、見知らぬ男が知っている。しかもその男には自身の天使の力がまったくと言っていいほど通じない。絶対に敵わない相手だとまざまざと見せつけられた相手だったのだから。
……それが未来の自分自身だったというのは、どこか、自らの底意地の悪さを見せつけられたような感覚がある。
まあ確かに、こうしてみるとわざわざ「私は未来の君自身なんだよ」などと、懇切丁寧に荒唐無稽な事実を説明する気になどなりはしない。
「どうした。やらないのか?」
「……くそっ」
私の挑発に、過去の私は瞳を蒼く輝かせる。
が……それだけだった。殺さなければならないと思ったものの、手を下すことはできなかった。強大な力を持っていることと、実際にその力を行使できるかどうかは別問題だ。
当時の私は、泣きじゃくる幼い銀を前に彼の境遇を考えてしまい、手を下すことができなかった。
銀のことが可哀想だと思ってしまったのだ。その後、彼が引き起こす被害の大きさを分かっていたのに。……銀を殺すために自分はここにいるはずだと、分かっていたのに。
「なら、代わりに私がやってやろ――」
「――止めろっ!」
私の言葉を鋭くさえぎり、過去の私は銀をかばう。
この時、銀をかばったのは確かに自分だ。しかし、今では私はまったく違う考えを抱いている。その事実に、思わず苦笑してしまいそうになる。
「なぜだ? ここで殺しておけば、天原つかさは死なずに済むというのに」
「それ、は……」
私の示す二者択一に、回答が選べない過去の私。
ある種のトロッコ問題だ。
自分の目の前に線路の分岐器があり、線路の片側には一人の作業員が、もう片側には五人の作業員がいる。線路を止まる気配のないトロッコが走ってきていて、そのままでは五人の作業員が死んでしまう。しかし、自分が分岐器を操作すれば、五人の作業員は助かる。……代わりに、分岐器を操作したために、死ぬことがなかったはずの一人の作業員は死んでしまう。
これは、五人を救うために一人を犠牲にするという選択を選ぶことができるか、という倫理の問題だ。犠牲になる一人が自分であれば、ヒロイックな自己犠牲で済むかもしれない。だがこの問題は「自らの手で他者の生死を選択する」ことに耐えられるかどうかを問うているのだ。
手を出さずに、傍観者としてただ見ていることもできる。だがそれは、救うことのできる命を見捨てていることにもなる。分岐器を操作した場合は、多くを救う反面、自らが手を下した選択により死ななかったはずの人間が死んでしまう。
これも同じだ。
幼い銀を自らの手で殺せば、神稜高校での被害をなかったことにできる。天原つかさも死なずに済む。ただし、目の前で泣きじゃくる少年を本当に殺せるなら、だが。
「一度選んだはずの選択だ。もう一度選ぶのがそんなに難解かね?」
「……」
「……。和彦さんを、そんなに……追い詰めないでください」
答えられない過去の私に代わり、過去の燐が震える唇でつぶやく。もしかしたら、この時すでに彼女は私が何者かを察していたのかもしれない。
私は息を吐き、泣きじゃくる銀を見下ろす。
今の私であれば、幼い銀を殺すということにためらいなど幾ばくも抱きはしないだろう。なら……ここで自分が銀を殺せば、歴史を変え、天原つかさが死ぬという事実をねじ曲げ、彼女を生かすことができるだろうか?
昔の私が望み、どうしても叶えられずにあきらめたことを、今になって。
そうすれば、葉巻和彦という男は自らの命の在り方に疑問を思うこともなく、世界中の絶望を目の当たりにすることもなく、人類を滅ぼすなどということを考えたりもせず……。ありきたりで平凡で、つまらないが幸せな生活を送っているのだろうか。
しかし、そうなれば今度は「銀を殺した今の私」という存在がいなくなってしまうことになる。いわゆる“過去に戻って祖父を殺したら、今の自分はどうなってしまうのか?”という「祖父殺しのパラドックス」と同じ状況になるわけだ。
私は内心で首を振る。
五年前の私であれば、おそらくそのパラドックスの結果がどうなるか試しただろう。だが今では、天原つかさの死は、自らに絶望を与える上でなければならないものだったと感じている。
今の私に、銀は殺せない。
むしろ、銀を殺すことなどしてはならないとさえ感じてしまっている。人を――たとえそれが、年端のいかぬ少年だとしても――殺すという行為に問題があるとは思っていない。それが必要であれば、老若男女、たとえ赤子であろうと私は手をかけるのにためらいはしないだろう。
だが、銀を殺してはならない。銀はあの時あの場所で、あの事件を起こさなければならなかった。なによりも、自分の意志を決定づける重要なファクターとして。この十年後、彼の行動により天原つかさが命を落とすことで、過去の自分を絶望におとしいれるきっかけとして。
私は、タイムスリップによって生じるパラドックスを起こしてはならないと感じているのだ。
「僕、生きてちゃいけないのかな……?」
泣きはらした銀が、しばらくしてそうつぶやく。
「そんなこと……ないんだ」
過去の私はとっさにそう答えてしまう。元々、時間をさかのぼって幼い銀を殺そうと思っていたにも関わらず。
「生きていれば、どうにかなる。……どうにか、なるんだ」
過去の私はそう銀に言い聞かせ、彼を立たせる。
一般財団法人日本遺伝科学研究センターと呼ばれる施設は、建物周囲の敷地も含めて全壊している。周囲は瓦礫だらけで、原型を留めていない。そのさらに外側は山あいの森林が広がっているが、施設に近い森林の木々も“炎の剣”で斬り倒されている。とはいえ、人里離れたここの大規模な破壊がどこかに露見するとは考えにくい。仮に露見したところで、報道されることがないと私は知っている。
調査の結果、事実としてここに関する報道はなされなかったのだから。
ということは、仮に私がどんな被害を起こしたとしても、それもまた露見しないということだ。
とはいえ、ここでやるべきことは終わった。
手に入れるべき情報を手に入れ、過去の自分自身を諭し、助け……幼い銀の暴走を止め、生かした。
これで、この遺伝化学研究センターで見届けるべき事実はすべて確認し終わったはずだ。
私はようやく泣き止んだ銀をその場に立たせ、彼に敷地の外、方向としては山の麓になる方を指し示す。
「銀。君は向こうに逃げるんだ。距離はあるが、君でも夜になる前には古い日本家屋にたどり着けるだろう。そこには轟という老夫婦がいる。彼らを頼れば、こことは違う暮らしが、外での暮らしができるようになるはずだ」
「そ……と……」
その言葉に、銀はぴくりと反応する。
私はうなずいて見せる。
「そうだ。この建物の外側で、普通に暮らす人々と同じ生活が送れるようになる」
私の言葉に銀は喜びかけ……けれどすぐに不安そうな表情を浮かべる。
「けど、でも……ほかの、みんなは――」
私は目を伏せ、首を横に振る。
「君がここを破壊したんだ。君は確かに何人かを助けることはできた。しかし、同時にたくさんの人を殺しもした。生き残った者たちは、君とは一緒にいられないんだ」
「だけど、でも、ぼくは……りんを……」
「君のおかげで彼女も自由を手に入れることができた。今はそれだけで満足するんだ。いずれ彼らとの道は重なる。……いずれな」
「ホントに? またあの子に会える?」
少しだけ期待に顔を輝かせ、銀が私を見上げてくる。
銀の言葉に過去の私と燐がほほをひきつらせているのが視界に入ったが、それでも私は銀にほほ笑みを向ける。
「本当だ」
私の偽りに過ぎない笑みを、幼い銀は簡単に信じた。
銀は両手で泣きはらした瞳をごしごしとぬぐい、私を見上げるとうなずいてみせる。
「さあ、行け」
「う……うん」
それでも後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながら、それでも崩れた塀を乗り越え、銀は森の中へと姿を消していった。
「……。さて、次は君たちだな」
「……」
私が過去の私に向き直っても、彼は銀が消えていった森の奥を呆然と見つめたまま返事をしない。
……いや、返事などできなかったのだ。
「どうした。まだ銀を殺せると思っているのなら追いかけるといい。……本当にできるのならな」
「……」
私の挑発に、過去の私は唇をかむ。
この時のことはよく覚えている。
ここで銀を殺せば、天原つかさを救うことができる。けれど、泣き叫ぶ銀の姿に、燐が語ってくれたこの施設の地獄を想像してしまった。
自分が再び手を汚すことに対する恐怖と同時に、あの銀への憐れみが私をためらわせた。
トロッコ問題が――今の私にとってはパラドックスの問題なのだが――現実の自分に降りかかり、私は感情に振り回されて冷静な判断を下せなかったのだ。
「あの……どこかへと帰ろうにも、私たちは……」
燐はぽつりとこぼし、途中で言葉を切る。しかし、その続きは容易に想像がついた。
――どこかへと帰ろうにも、私たちは元の時代に帰ることなんてできないのではないでしょうか――。
言おうとしたことが言えないまま、過去の私に寄り添い、こちらを不安そうに見上げる燐。過去の私もやっとそのことを思い出してはっとする。
「――そ、そうだよ。帰りたくったって、今の時間と元の時間との正確な差も分からないんだ。燐がワームホールを開ても、時と場所がどれだけズレたところに出てしまうか……」
過去の私の言葉に、過去の燐が恐る恐るうなずく。
「ふむ。思っていたよりちゃんと天使の力について考えているようだな」
「……なんだよ。その言い方」
皮肉がちゃんと通じたようだ。
「私に言わせれば、たとえ間違った時間に跳んだところで、その時間軸がいつなのか正確に把握できた段階で、再度目的の時間へと跳べばいいだけだと思うがね」
「あ……」
「確かに」
そう言い合って、過去の私と燐がお互いを見合わせる。
……まあ、過去の私が気づかなかったのはともかく、いろいろと試していたはずの燐が、この時までそこに思い当たらなかったのは少々意外だ。
彼女はやろうと思えば過去の自分と話しに行ける――そして、実際にそうしていた――し、そこで未来の自分からそういう話をされなかったのだろうか?
……まあいい。彼女には彼女なりの考えがあるのだろうし、私と同じようにあえて過去の自分にそういった知識を与えなかったのかもしれない。
「ともかく、問題はないさ。こにには私がいるのだからな」
私は世界の見方を変える。
時間軸を積分して二次元に拡張。視界内の光子の波長が赤方偏移し、視界が紅く染まる。
私は時間の余剰次元を認識する。
時間が一次元から二次元になると、一次に過ぎない時間の流れを……その変化そのものを感じられるようになる。
時間というものは、空間と同じく重力により伸び縮みする。
紅い視界の中で時間の流れの変化を感覚できるということ。実際のところ、それは可視化されているというよりは……温度を感じるのと同じように、自分自身にとっての“現在”からの差を体感するようなものだ。
重力が強くなれば強くなるほど時間の流れは遅くなる。ブラックホールのように重力が極端に強い場所になると、光さえも脱出できなくなる事象の地表面で時間の流れは止まり、その内側では時間の流れが逆行を始める……というのが、理屈の上での話だ。実際にどんな風になるのかは経験したことがないから分からないが。
前方に重力子を集中させる。便宜上、時間軸を二次関数におけるx軸、つまり横の流れと見たとき、y軸方向である縦方向が無限近似値となるほどに。
三次元空間に、二次元時間の影響を受け赤方偏移した光子が放出。それは幾何学模様を描き、さながら魔法陣のように展開。私は露出した特異点――ワームホール――を作り出した。
私は時間の流れをコントロールし、ワームホールの向こう側を任意の時と場所に固定する。
かつての三峯燐には不可能だった、任意の時と場所へのタイムスリップ。それを、今の私には苦もなく行うことができる。
……皮肉だな。
当時、天原つかさを救うためにどうしても欲しかったその力。それを使いこなせるようになったのは、天原つかさを救ってはならないと考えるようになってからなのだから。
ワームホールの向こう側の光景が安定する。向こう側は夜だった。プレハブの仮設住宅が並ぶ、当時の私の家があった場所。
「ここは……」
「君たちがやって来た時間から一時間後の君の家だ。あのホテルはまだ戦場だからな。こちらの方がよかろう」
「あんたは一体……何者なんだ。どうして僕のことを……なにもかも知ってる。どうして……誰も知らないはずのことさえ知ってるんだ」
過去の私の問いに、私はふっと笑みだけを見せる。
「いずれ分かるさ。私が説明などしなくともな」
「だけど――」
「――さあ行け。葉巻和彦、三峯燐。自らの望みを果たすためにな」
私は有無を言わせず、二人をワームホールに押し込む。
「お、おいっ」
「和彦さん。今は……お言葉に甘えましょう」
抵抗しようとする過去の私に、燐が控えめに諭す。
「私たちが元の時間軸に戻るには……今のところ、この方の助力が必須です。この方がいずれ分かる、というのなら、それを信じるべきだと思います」
「そうは言ったって……」
「この方は私たちに危害を加えることはありませんでした。それどころか、建物の崩壊から助けてくれたんです。ですから、疑わなくていいのだと思います。それに……できれば、早くここを離れたいです。こんな光景……二度も見ることになるなんて思ってませんでしたから……」
「……そっか。そうだったな。ごめん、燐」
燐は少し不安そうに瓦礫を眺め、過去の私は不満を飲み込んで私に向き直る。
「本当に、いずれ分かるっていうんだな?」
私はうなずく。
「もちろんだ」
今ここで私が実感しているのだから、葉巻和彦が理解できるようになるというのは、予測や希望、願望の類いではない。単純な事実だ。
「……分かった。あんたが何者か、突き止めてやるからな」
そう宣言すると、過去の私は燐と共にワームホールをくぐる。
「ああ、そうしたまえ」
私は笑ってそう言うと、ワームホールを閉じ、彼らと別れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます