第8話 転移
08
「だっ、誰……」
男の声にびくりとして、燐を抱えたままなんとか上体を起こして周囲をうかがう。
ベッドの向こうの窓際に、三十代くらいの男がたたずんでいた。
いつの間にそこに現れたのかはわからない。
東欧系の白人だ。
短髪の黒髪に、はっきりとした紫水晶の瞳。ダークブラウンのチノパンに、グレーのジャケットを羽織っている。
よく見ると、男の背後のカーテンがなびいている。僕たちは窓を開けていないはずだ。そうすると……。
「セルシオ・シュタイナー。私の名はもう知っているだろうと思ったが……」
男のなめらかな日本語に僕は何も言えず、ただ静かに首を横に振る。
名前は知っている。だけど、本人に会ったのは初めてだ。だから当然、顔を知らない。
「ふむ……ともあれ、こんな時間にすまないな。第四項対策室の警護がここまで厳重だとは思っていなくてね。隙を探していたらこんな時間になってしまった」
穏やかな表情に穏やかな口ぶり。ついさっき未来の燐に言われていた様子とはかなり違っている。
「……」
第四項対策室の警護?
燐のことを言っているのだろうか。いやでも燐は今もここに――寝ているけど――いる。廊下には錫さんもいたし、やっぱり僕に見えないところでずっと監視しているんだろう。
それはそれで……あまりいい気はしない。
「和彦、さん……」
胸元でむにゃむにゃとつぶやき、燐は僕に抱きついてくる。……そろそろ起きてくれないかな。
「燐――」
「――はは、無理に起こさなくてもいい。騒がしくするつもりもない。君と話をしたいだけさ」
苦笑してなんでもないことのように言うシュタイナー教授。
「……あんたに、命を狙われているって聞いた」
僕は燐の肩を少し強めに抱いて身体を引き、少しでもシュタイナー教授から離れようとする。
「大げさな」
僕がずりずりと後退し、壁に背中をつけるのを見ながら、シュタイナー教授は肩をすくめる。
「現状の目的は君との対話だけだよ。それで君が変わるかどうかは分からないが……できることは試しておかないとな」
「はあ」
「それに……今の君を殺すことは不可能だと思っているしね」
「……? なんでそんなことが言える?」
「正直に言えば分からないよ。経験則、としかね。あえて近い表現をするなら……コペンハーゲン解釈かな?」
「はあ?」
なんだそれ。
そんなの知らないぞ。
「量子力学における考え方の一つさ。量子力学というのは分子や原子、そして素粒子なんかのミクロな世界についての理論だ。このミクロな世界では、粒子の振る舞いに“観測”という行為が影響を及ぼす」
「?」
「例えば……観測する前では、粒子が地点Aに存在する状態と地点Bに存在する状態が重ね合わさり、どちらにも存在していることになる。しかし、観測を行うことで地点Aにだけ存在する状態へと収束する。それがコペンハーゲン解釈の大まかな考え方だな。観測前の状態を、重ね合わせの状態であると受け入れることにした解釈だな」
「……?」
急に物理学かなにかの授業でも始まったようだが、さっぱり理解できない。重ね合わせ? 二つの状態が同時に存在する?
「よく分かんないけど……それ、観測してないからどっちにいるか分かっていないだけなんじゃないの?」
違う状態が両方とも存在するなんて、意味が分からなさすぎる。
「我々のようなマクロな世界の理屈では、その通りだ。サッカーボールが地点Aと地点Bのどちらにあるか? それはどちらにあるか分からないだけだ。しかし、ミクロな世界ではそれだけでは説明のできない事象が間違いなくあるのさ。どこかで聞いたことはないかね。光なんかは粒子としても波としても振る舞うっていう話さ」
「うーん、聞いたことある、かも……」
中学の頃に理科の授業で聞いたのか、科学系の動画で見たのかは覚えていないが、そんなことを言っていた気がする。
「実際の実験結果でも、素粒子がどちらにいるか分からないだけでなく、どちらにも存在しないとあり得ない事象が観測されている」
「そんなの……」
意味が分からないと思うけれど、それが実際に確認されているのなら、僕の反論は無意味だ。
「興味があるなら、二重スリット実験やシュレーディンガーの猫なんかを調べてみるといい。計測不可能なほどに小さな粒子の奇妙な振る舞いに、人類は面白いように振り回されていて、まだ理解しきれていないのだからね」
「落ち着いた時に、思い出せたらね」
嫌味ったらしく言ってやったのに、シュタイナー教授は大真面目にうなずく。
「ああ。それで十分さ」
「……」
なんというか、シュタイナー教授には毒気を抜かれてしまう雰囲気がある。未来の燐が言うような……敵だとはとても思えない。
「ああ、ずいぶん話が逸れたな。君を……殺すことは不可能だと思っているという話だったね?」
「……そうだ」
「コペンハーゲン解釈――つまり、観測が影響を及ぼすという考え――に近い言い方をすれば、今の君の将来は、普通ならば生きているか死んでいるかなんて分からない。未来は観測できないものだし、どうなっているか分からない以上、生きている可能性と死んでいる可能性が両方とも存在する状態と言えるだろう。ここまではいいかな?」
僕はうなずく。
過去と違って未来は決まっていない。
重ね合わせはともかく、僕が将来――たとえ五分後の未来だとしても――生きているか死んでいるか分からないというのは、その通りだと思う。
「さて、そこで私が君よりも未来の葉巻和彦と出会ったことがあったとしたら……それは、未来における葉巻和彦の生存を観測した、というのと同じことではないかね?」
「それは……」
「ならば、未来の君が生きているという状態に収束する」
未来で僕が生きているのを知っているとする。ならば、少なくともその時までは僕が死ぬことはない。……そういうことだろうか。
「だから、今の僕が死ぬことはない……と?」
シュタイナー教授がうなずく。
……ふむ。
今の僕が死んでいないから未来の僕が存在しているわけで、未来の僕を知っているということは、逆説的に今の僕が死ぬことはないと証明しているということなのだろう。
ちょっと頭がこんがらがりそうな話だ。
「さて、私にとってはここからが本題だ。私は未来の君と出会ったことがあると言ったな?」
「あ、ああ」
「葉巻和彦君。君は将来どんな大人になると思うかい?」
「え、いや……そんなこと、考えたことも……」
さっき会ったばかりのほぼ無関係な他人からの、そこそこプライベートな質問に、うろたえてしまう。
だいたい、今の自分……どころか、過去のことにさえ折り合いをつけられていないのに、将来の自分なんて考えられもしない。
「ある程度の事実を教えておこう。君は未来において偉大な科学者となる。だが同時に――」
シュタイナー教授が何かを言いかけていたが、背後の破砕音にさえぎられる。
同時に入口の扉が室内に吹っ飛んできて、目の前のベッドを粉砕した。
燐を抱き締めたまま、僕は恐る恐る振り返る。
「和彦さんから離れなさい!」
背後、扉のなくなった居室の入口からは、未来の燐がやってきている。その瞳は、すでに紅く輝いていた。
彼女の背後には、廊下からポカンとこちらをのぞきこんでいる錫さんと沃太郎さんの姿がちらりと視界に入った。
「チッ。もう気づかれたのか」
シュタイナー教授は舌打ちとともに瞳を蒼く輝かせる。
「殺させはしないわ」
「勘違いだ。私は殺すつもりも、怪我をさせるつもりもない。葉巻和彦君との対話を望んでいるだけだ」
「嘘ね。何度貴方に殺されそうになったか分からないわ」
シュタイナー教授の反論に聞く耳を持たない未来の燐。緊迫感の増していく室内に僕も蒼い世界を見るべきか逡巡する。
いったいどう動くのが正解だ?
どうやったら僕たちは無事でいられる?
「あの時の彼と今の彼は違うだろう。まだああなってしまう前だ。対話の余地がある」
「詭弁ばかり並べて! そうやって貴方が和彦さんを苦しめてばかりいるから!」
「君たちの目的を知れば誰だってそうなるさ。君は彼の正気を取り戻そうとは思わんのかね」
「あの人の望みが……私の望みです!」
未来の燐が鬼気迫る表情で言い切る。シュタイナー教授は眉間にしわを寄せていた。
「彼を考え直させるのに一番近いところにいるはずの君が、そんなことを言うのかい? 外れた道を元に戻すのも、近しい者の役目だと思うがね」
「私は……ッ! 貴方に何が!」
まるで追い詰められたかのように叫び、未来の燐が瞳の輝きを強めて僕の方へと手をかざす。
「やめろっ、危険だ!」
未来の燐はシュタイナー教授の叫びなど意に介さなかった。
彼女の長い黒髪が、不可視の力によりふわりと浮き上がる。
僕が重力を操る時とは違う、強い力の感覚にぞわっとする。
「ちょ、ちょっと――」
紅い幾何学模様の魔法陣が目の前に展開。空間が急激に渦を巻くように歪み、あっという間にワームホールが顕現する。
この前、今の燐がこうやってワームホールを開いた時には、ワームホール展開からかなりの時間を要して神稜地区局部地震の時間、場所に繋げていた。けれど、目の前のワームホールは現れてすぐだっていうのに、すでにどこかの建物の屋上の光景が映し出されている。
「待て、そんなことをすれば和彦君が帰れなく……」
シュタイナー教授は言葉半ばで口をつぐんでしまう。
「……」
ワームホールに手をかざしたままの未来の燐が、もう片方の手をシュタイナー教授にかざしてきたからだ。そこはすでに空間が歪み始めていて、蒼の世界を見ていない僕にさえ、凄まじい力が内包しているのがわかる。
「……教授は私が止めます。和彦さんは早くそちらへ。そちらなら……安全です」
「いやでも――」
「――和彦さんが望むものも、そこにあるはずです。それがたとえ……叶えられないものだとしても」
望むもの?
叶えられない?
「チィッ」
「……させないッ!」
ぽかんとするばかりの僕の目の前で動こうとしたシュタイナー教授。しかし、その瞬間に未来の燐が手のひらに込めた力を解放。爆発的エネルギーが教授を襲う。
「ぐあっ!」
教授はとっさに頭部をかばうが、それどころではなかった。
粉砕されたベッドと、そこに突き刺さったままの扉。さらに部屋の壁を丸々吹き飛ばして、建物に大きな穴が空く。
それらの瓦礫とともに、教授は為すすべなく地上へと落ちていく。
「和彦さん。今のうちに、さあ早く!」
「でももう――」
「シュタイナー教授なら、あれくらいでは怪我ひとつ負わないわ。すぐにここに戻ってくる」
「……」
そこまで言われても、踏ん切りがつかなかった。どう言ったらいいのか分からないが……事態に何一つついていけていないことに対する、漠然とした不安だった。
「……お願いします」
未来の燐が膝をつき、燐を抱える僕の手に自らの手を重ねる。その手はすごく冷たくて……小さく震えていた。
彼女を見上げると、その紅く輝く瞳には涙が浮かんでいて――一筋、ほほを伝って落ちる。
「信じて下さい」
「……分かった」
僕は不安を飲み込み、うなずく。
彼女は明らかにほっとした様子で笑みを浮かべ、涙をぬぐった。
僕は立ち上がって、未だ眠る燐を両手で抱える。
……これでも眠っている燐にはもはや呆れるくらいだが、眠っていてくれて助かったかもしれない。
「信じるよ?」
「はい。私は……昔も今も、和彦さんのためだけに行動しています」
未来の燐の言葉にうなずいて、ワームホールへ足を踏み入れようとする。
同時に外からシュタイナー教授の声が響く。
「葉巻和彦君! 君は――」
「――黙りなさい!」
外にシュタイナー教授の姿が見えたと思ったのと同時に、未来の燐に突き飛ばされる。
「うわっ」
よろめきながらワームホールを抜ける。
振り返ると、そこには決死の表情でシュタイナー教授に相対する未来の燐の姿。
「和彦さん。私のことをお願――」
そして、未来の燐の言葉を聞き終える前に、ワームホールが目の前で閉じたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます