菫色の瞳
春の野原を思わせる、優しげな緑色の瞳には見覚えがあった。
忘れるはずもない。
幼い頃、シロツメクサで作られた指輪を受け取ったその日から、その瞳の視線を向けられる先はリディアだったのだから。
リディアは急ぎ頭を垂れ、膝を折ってエドマンドへと挨拶をした。
仮面もつけず、お付きの者も連れずに、一国の王子であるエドマンドが一体こんなところで何をしているのか疑問だったが、いきなりの事にリディアも困惑していて、カーテシーの状態から顔を上げられないでいる。
「すまない、驚かせてしまったようだ。今日は仮面舞踏会、無礼講なんだから顔をあげてくれ」
髪を染め、普段のリディアのイメージとはかけ離れているドレスを着ているせいか、エドマンドはまだ目の前の人物がリディアであることに気づいていないようだった。
きちんと仮面をつけていることを確認し、おそるおそる顔を上げる。
エドマンドに会うのは、おそらくあの舞踏会の夜ぶりだろう。久々に見たエドマンドは目の下にうっすらと隈が見え、少しやつれているように見えた。黒い、しかしよく見ればあちこちにビーズの刺繍があしらわれた豪華なジャケットを着て首元には赤いクラヴァットを巻いている。仮面舞踏会に合わせてシックかつ派手な服にしたのだろうか。いつもは優しげな色を纏っているのでなんだか雰囲気が少し違っていた。
「殿下が謝られることなどございませんわ。失礼致しました。では、私はこれで……」
出逢ったら開口一番に舞踏会の時の事について文句を言ってやろうと息巻いていたのに、実際に顔を見てしまうと、そんな気分にはなれなかった。
久々に見る顔に心からの安堵を覚えて、自分はやはりまだエドマンドの事を愛しているのだとリディアは再認識していた。あんな事があっても、結局嫌いにはなれない。自分はさっぱりとした性格だと自認していたが、どうやら女々しい部分もあるものらしい。
しかし、ここでエドマンドに自らの正体を明かす事は躊躇われた。エドマンドを信じたくとも、まだこの件についてはわかっていないことが多すぎるからだ。
リディアは深く一礼して、今すぐにこの場から去ってしまおうとした。おそらくテオドアのもうすぐ馬車もやってくるだろうし、きっと長くは話せない。ならば、今は機会を待つのが得策であるはずだ。
「――待ってくれ」
突如リディアの腕がぐん、と後ろに引っ張られた。
勢いにつられ、思わず振り返ってしまう。
仮面越しではあるが、正面から目が合った。エドマンド の瞳には、困惑が見てとれる。変装もしているし、仮面もつけているが、もしかしたら気付かれたのかもしれない。
エドマンドはリディアの腕を掴んだまま、何を言おうか悩んでいるようだった。リディアも、エドマンドの口から何が発せられるのかを待っていた。自らの心臓の音が聞こえてやいやしないかと不安になるほどに、鼓動の音がうるさい。しばらく無言の時が流れ、口火を切ったのはリディアだった。
「……殿下、何か私に用がおありですか?」
「すまない。ただ君が、僕の知った人によく似ていて……それで……」
「……そんなに似ているのですが?」
「いや、髪の色も、服装も君とは全く違う。でも、目がすごく似ている気がする。僕の知っている瞳なんだ。菫色の、優しい瞳だ」
「その方は殿下のご友人ですか?」
「いや、僕の元婚約者だ。愛する人だった。でも、僕が取り返しのつかないことをして、彼女は姿を消してしまった。全ては僕が悪い。悔やんでも悔やみきれなくて。君が似ているから、もしかしてと……。いや、僕は何を言っているんだろうな。都合の良い夢だ。現実的に考えれば、そんな事あるはずがないのに」
エドマンドはリディアから目を逸らすと、掴んでいた腕から手を離した。どうやら、自分の中であれこれ考えているうちに、自ら「リディアがここにいるはずがない」と結論を下したらしかった。
項垂れているエドマンドの姿はあまりにも不憫だった。そして同時に、エドマンドがリディアがいなくなった事に対してここまで落ち込んでいる事が意外だったのも事実だ。
まず、このエドマンド の様子を鑑みると、エドマンドがノルデンドルフ家と共謀して今回の事件が起きた線は確実に消えた。そして、舞踏会での婚約破棄の時の事を考えれば、リディアの死後はノルデンドルフ家が二人の娘を使ってエドマンドを囲い込んでいるはずだったが、エドマンドが未だにリディアに未練を残している点を考えれば、もしかしたらそれがうまく行ってないのかもしれない。
「すまない、君に時間を取らせてしまった。行ってくれ」
そう言ってエドマンドはリディアに退出を促した。向こう側から、馬車を引いた馬がやってくるのが見える。
この場所にはリディアとエドマンドしかいない。もしかしたら、今なら――
「生きております」
「え?」
エドマンドはぽかんと口を開け、リディアが言ったことの意味を理解しようとしていた。
「エドマンド様のお探しになっている方は、生きております」
「き、君は……いや、それよりも、それは本当なのか?リディアは、彼女は無事なのか?!」
「今はまだ言えません。何が起きているか、誰が味方なのかわからないのです。殿下もどうか、お気をつけて」
リディアはそれだけ言い残すと、やってきた馬車へと急いで乗り込んだ。
エドマンドはリディアに腕を伸ばしたが、それは突如現れたクルトによって阻まれた。クルトはエドマンドを押しのけ、馬車の扉を閉めた。
「待ってくれ!」
エドマンドが叫んだが、その声も虚しく馬車はそのままリディアを乗せて出発した。
エドマンドの姿は後方へと遠ざかっていき、すっかり小さくなってしまうまでリディアはその姿を見つめていた。 馬車にはテオドアとクルトが座っている。リディアは仮面を外し、目元を拭った。
『大丈夫かい?』
『えぇ。少し、疲れただけ。でも、やるべき事はできたと思う』
『さっきの彼は?』
『彼が私の元婚約者で、この国の皇太子のエドマンド よ』
『君の事は、彼には伝えたのかい?』
『詳しくは何も。でも、私が生きているとは伝えたわ。そして周りに気をつけてと釘もさしておいた。やっぱり、エドマンドはノルデンドルフ家に利用されているだけだと、私は思うの。黒幕はノルデンドルフ家。……だからこそ今は何も言えないわ』
馬車はノルデンドルフ家の邸宅の門を潜り抜け、森の中の真っ暗闇の中を走っている。
まだ、何一つ明らかにはされていない。それでも、フローレンシアに会うことができたし、エドマンドにリディアが生きていることだけは伝える事ができた。わずかな一歩だが、これは重要な一歩だ。
馬車に乗ったことで緊張がとけたのか、どっと疲労が押し寄せてきた。フローレンシアの邸宅にたどり着くまでにはまだ少しかかるだろう。襲ってきた眠気に抗うことなく、リディアは眠りに落ちた。
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