仮面の下の君

 ドアマンに導かれて正面玄関をくぐると、そこに広がるのは貴族達が生きる世界、社交界だ。

 吹き抜けの天井、大理石が敷き詰められたホールは、ノルデンドルフ家の色であるロイヤルブルーを基調とした装飾で美しく彩られていた。至る所にノルデンドルフ家のクマの紋章のタペストリーが堂々と飾られ、現在のノルデンドルフ家の栄華を表しているかのようである。

 ホールはたくさんの招待客で賑わっており、仮面舞踏会ということで、今夜は皆が思い思いの仮面をつけていた。

 顔を全て仮面で覆い、全く誰なのかわからない者もいれば、片目まわりに簡素な仮面をつけただけで、すぐにその人であるとわかってしまうような者もいる。いつもの舞踏会とは違ったなんともミステリアスな空気が漂っていた。


「な、なんだこれ……」


 クルトが豪華絢爛な舞踏会の様子を見て、驚きのあまり口をあんぐりと開けている。

 美しく輝くシャンデリア、上等な服に身を包み、話に花を咲かせる貴族達。

 一般庶民であるクルトが初めて貴族達の暮らす世界を目の当たりにしたのだから当然といえば当然だ。


『初の舞踏会は彼には刺激が強かったみたいだね』


 テオドアはクルトが目を白黒させている様子を見て笑った。


「クルト、あまり離れないで。そしてキョロキョロしない」


 リディアは立ち尽くしているクルトの手を引いた。

 てっきり、何か言い返されるかと思っていたが、クルトは普段とはまるで違う世界に放り込まれて萎縮してしまっているようで、珍しく、大人しくリディアの言うことを聞いた。


『リディア、今日の君のパートナーは俺だよ、忘れないで』


 テオドアは満面の笑みを浮かべて、もう片方のリディアの手を自分の腕に絡ませた。

 近くにいた、テオドア狙いであっただろう貴族の令嬢達が、その光景を目にしてあからさまにがっかりした表情になり、テオドアの周りから去っていった。


『すごいな、効果覿面だ』

『……貴方のお役にたてたなら良かったわ。テオ、まずは部屋の隅で辺りを観察しましょう』


 リディア達は人混みをかき分けて、ホールの壁際、隅の方へと移動する。

 壁際にはテーブルが置かれ、レモネードや一口サイズのクッキーやタルトが並べられていた。そして、それらをつまみながら、パートナーのいない貴族の男女達が真剣な眼差しでダンスの相手を探している。

 周りをじっくり観察してみたが、今のところ、エドマンドやノルデンドルフ家の者たちの姿は見られなかった。フローレンシア達も招待されているのではないかと期待して探してみたが、姿はない。


『今のところ、見知った顔は誰もいないみたい』

『主催者は挨拶に忙しいのかもしれないな。見たところ、カレドニア王国のありとあらゆる貴族に声をかけてるみたいだ』


 テオドアの言う通り、リディアも先ほどから見知った顔を何人か目撃していた。皆、カレドニア王国では名のある貴族で、少議会の議員や広大な領地を持つ領主達である。


『味方を集めようとしてるのかしら』

『恐らくね。そしてここまで盛大に舞踏会を執り行うということは、ノルデンドルフ家は自分達の力を誇示しておきたいんだろう。君のお父上が亡くなった今、この国で一番力を持っているのは自分達だと、ね』


 納得がいった。

 そして同時に、なんと行動の素早い事だろうと驚かされる。敵はこれで自分達の味方を増やし、足場を固める事に成功したも同然だ。

 少議会はノルデンドルフ卿がほぼ全ての実権を握りつつある今、次に敵が目指すのは一体何か、リディアはうっすらと勘付いていた。

 わざわざリディアを殺そうとしたくらいだ。恐らく、ノルデンドルフ卿が次に目指すのは自分の娘を皇太子妃にする事だろう。

(どこまで欲深い人達なの……)

 心の奥底にしまっていた怒りが沸々と湧き出し、リディアは拳を力いっぱい握りしめた。


 そんな事は決してさせない、エドマンドを利用させるなんて、そんな事は、決して。


『それじゃあ、今のうちに踊っておくかい?』


 怒りに震えているリディアの顔をテオドアが覗きこんだ。あっけらかんとした物言いに、思わず力が抜けてしまう。


『ダンスを?何を言ってるのよテオ、私達、今日はそんな事の為に来たわけじゃ――』

『あっちを見てごらん、壁際に立ってる彼等が君の事をダンスに誘いたくてうずうずしてる。できるだけそういうのは避けたいだろう?』


 テオドアが示した先にちらりと目を向けると、確かに三名ほどどこかの貴族の貴公子がリディアの様子を伺っていた。

 テオドアの言う通り、このままここにずっと滞在していれば、そのうち誰かから声をかけられてしまうだろう。

 リディアは不満を笑みの下に隠し、テオドアの手を取った。クルトに「ここにいるように」と言いつけると、クルトは「どうぞごゆっくり」と手をひらひらと振り、呆れたような視線でリディア達を見送った。


『嵌めたわね』

『せっかくの舞踏会なのに君と踊らないなんて勿体無いと思ってね』


 テオドアはリディアをホールの真ん中まで連れて行った。ホールの真ん中には男女が二列になってお互いに向き合っている。


 小さくお辞儀をする。それが合図だ。


 音楽隊が軽やかに音楽を奏で始めた。

 軽くステップを踏みながら、お互いに近づいたり離れたりを繰り返す。くるりとターンする度にテオドアのつけているコロンの香りがふわりと舞った。


『私、ダンスは苦手なの』

『そうかな、足捌きとか、ちゃんとできていると思うけど』

『こういうのはエドマンドの方が得意なのよ、私はいつもリードしてもらっていたから』


 リディアはダンスが苦手だ。

 こればかりは、もう生まれ持った才がなかったとしか言いようがない。しかし、エドマンドと舞踏会で踊る時だけは、ダンスの憂鬱さを忘れられたのだ。エドマンドに身を任せていれば、リディアはまるで蝶のように美しく踊る事ができた。ついこの前まで、二人でワルツやポルカを踊って楽しんでいたはずなのに、まるではるか昔の事のように思える。


 考え事をしていたせいで、リディアの足がうっかりドレスの裾を踏んだ。体が後ろへ傾ぎ、倒れそうになる。

 しかし、テオドアがリディアの身体をしっかりと抱きとめてくれたので、転倒は免れた。身体を強く引き寄せられ、気づけば睫毛が触れ合ってしまうのではというほどの距離に、思わず心臓が跳ねる。

 思わず目の前に現れたテオドアの薄く緑がかったハシバミ色の瞳があまりにも美しいので、リディアは思わず息を止めて見入ってしまった。


『……君が一途なのはわかってるけど、俺とのダンス中に他の男の話はしてほしくないな』


 イタズラっぽく笑みを浮かべたかと思うと、テオドアはリディアからすぐに離れた。


『彼は、そんなに良い男だった?』

『当たり前じゃない。私が愛した人よ』

『……君をこんな目にあわせても?』


 音楽が終わり、一曲目のダンスが終わった。

 踊っていた人々はお互いにお辞儀をして別れ、部屋のあちこちへ散っていく。ホールの真ん中には二人だけが取り残されていた。


『ごめん、意地悪な事を言った――』

『……それでも』


 テオドアの言葉を遮って、リディアが小さく呟く。

 いつものように、自信たっぷりに話す姿とは全く違う。

 俯き、声はか細かった。

 今にも泣きそうな、ただの十八の少女の姿だった。


『それでも、好きなの』

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