人生で一番最悪な日

 暗い森の中を一台の馬車が通る。

 馬車にはリディアと、リディアの父のアルブレヒトが沈痛な面持ちで乗っていた。


 結局、あんな騒ぎが起こってしまったので、舞踏会もそこそこに、リディアは馬車に乗ってブライスガウ辺境伯領へと戻らなければならなかった。

 周りからの好奇の視線には耐えられなかったし、とにかく早く戻って、一カ月後の裁判に備えなければならなかったからだ。

 証拠が偽物とはいえ、提示されたものに反証していくには準備する時間はいくらあっても足りないだろう。馬車内部は静まり返り、まるで葬式のような空気だ。

 

「お父様、本当にごめんなさい」


 沈黙を先に破ったのはリディアだった。

  

「でも、どうか信じて欲しいの。私は決してあんな事をする人間ではありません。幼い頃からエドマンドの側で彼を支える為に今日までやってきたのです。今回の事は、誰かが私を貶める為に仕組んだ罠です。だから、法廷できちんと疑いを晴らしてみせます。それまでどうか私を信じて下さい」

「……リディア、私はお前を一度たりとも疑った事はないよ」


 リディアを見つめる父の瞳はひどく優しいものだった。てっきり叱られるものと思っていたので、緊張していた身体から、思わず力が抜ける。


「私は、お前が小さい頃からずっとエドマンド様をお慕いしていた事を知っている。そしてあの方の為に日々美しくあろうと自分を磨き、彼の助けになれるように勉学に励み、努力の限りを尽くしてきた。そんなお前が、たかが騎士一人の為……もちろんアロイスは良い男だが、ひと時の浮気心の為にこんなバカな事をする筈がない。そんな事、父親である私にはもうすっかりわかっているさ」

「お父様……」


 父の言葉に、リディアはなんだか涙が出そうだった。自分の言葉を心の底から信じてくれる人がいる、その事実は思っているよりも精神的な支えになるものだ。


「だからこそ……エドマンド様がこのような判断を下された事が信じられない。彼はお前を随分理解していると思っていたからね」

「えぇ、私もです。カサンドラが証拠をでっちあげただけでこんな風に信じてしまうなんて。頬を叩いてさっさと目を覚まさせてやりたいわ!」

「カサンドラ?」


 アルブレヒトがリディアに聞き返した。


「カサンドラとは、あのノルデンドルフ家のご令嬢か?」

「えぇ、そうですわ。おそらく、彼女が私を貶めようとあれやこれやと仕掛けたんでしょう。以前から、彼女は私を嫌っていたようですし。……お父様、何か気になることでも?」


 ノルデンドルフ、という言葉を聞いた瞬間、アルブレヒトの顔色が少し変わったのをリディアは見逃さなかった。


「……もしかしたら今回の事は、カサンドラ嬢の個人的な恨みだけではないかもしれないな」

「どういうことですか?」

「カサンドラ嬢のお父上はヴェルナー•エルンスト•ツー•ノルデンドルフ。私と同じ小議会の議員なんだが……」


 アルブレヒトが喋り始めたその時、馬車がガタンと音を立て、突如動きを止めた。

 ブライスガウに到着するにはいくらなんでも早すぎる。窓のカーテンを開けて外を覗いてみたが、あたりは真っ暗で特に物音はしない。様子はわからなかった。


「何かあったのでしょうか?」

「なんだろうね、車輪でも外れたかな?」


 アルブレヒトは外の様子を確認しようと立ち上がると、扉のハンドルに手を掛けた。


 その時、虫の知らせというのだろうか、リディアの胸の奥底はひやりとして、暑くもないのになぜかこめかみを汗が伝った。ひどく嫌な予感がして、扉を開けようとする父に声をかけようとしたが、アルブレヒトの手が取手に触れ、扉を開けるほうが少しだけ早かった。

 

「何かあった――」


 扉が乱暴に開かれ、黒い影が馬車の中へと入り込む。気が付けば、リディアの目の前では最愛の父が、見知らぬ男によってナイフで刺されていた。

 銀色に鈍く光る刃がアルブレヒトの身体を貫き、乱暴に引き抜かれると、吹き出した生暖かい何かがリディアの顔にかかる。震える手で拭ったそれは真っ赤な血だった。


「え……」


 目の前で繰り広げられるあまりにも恐ろしい光景に喉が引き攣り、ヒュッと音をたてた。恐怖に身体を支配され、そのまま呆然と椅子に座りこんでいる。身体が動かない。混乱した脳が、今の状況を分析できないまま、四肢に信号を送れていないのだ。


「おい!!娘もここにいるぞ!」

「り、リディア……逃げろ!!」


 最期の力を振り絞ったような父の一言で、リディアは弾かれたように馬車から飛び出した。


 馬車の外では、従者達が野盗と思わしき男達と戦っていた。刃を交える金属音と怒声があちこちから聞こえてきて、リディアは恐ろしくて思わず耳をふさぐ。

 男たちはおそらくこの森に潜んでいた野盗だろう。寄せ集めのちぐはぐな服を着て、腕や顔にタトゥーが刻まれていた。


「娘が逃げたぞ!!」


 先ほど馬車に押し入ってきた男が叫んだ。

 男が手に持った松明で馬車に火をつけると、炎は瞬く間に馬車を呑み込んで大きな火柱をあげた。燃え上がった炎が暗闇を朱色に染め上げていく。


「追え!!逃がすな!!」


 男の指がリディアを指差す。燃え盛る炎に照らされ、男の持つ剣がおそらく父のものであったろう真っ赤な血に濡れている事に気づいて、リディアは思わず口を覆った。


 (逃げなければ……!)


 ハイヒールを脱ぎ捨て、ドレスの裾をたくしあげて走り出す。夜の森は真っ暗で、自分がどこに向かっているのかもわからないが、今はひたすらに後ろから追いかけてくる足音から逃げるしかなかった。伸びた枝が肌を掠め、あちこちに小さな傷がつくっていく。素足のせいで石を踏み、足の裏も痛い。しかし、それでも足を止めるわけにはいかなかった。


 (エドマンド……!助けて!助けて!)


 必死に駆けていると、ぐいと身体を引っ張られ、思わず悲鳴を上げた。よくみると、木の枝がドレスの裾に引っかかってしまっている。後ろからはリディアを追いかける足音が近づいてきていた。恐怖で視界が滲む。必死に引っかかった裾の部分を引き裂き、走り出したが、次は大きな石につまづいてその場に倒れ込んだ。顔面を打ち付け、鈍い痛みが広がる。しかし今はそんな事に気を散らしている場合ではない。


「こっちから音がしたぞ!」


 暗闇の奥から男達の野太い声が響く。

 ポツポツと小さな松明の光が森の奥に現れ、リディアは必死に足を動かした。しかし、体力には限りがある。しかもこんなドレスを着ていては、遠くまで逃げるのは不可能だ。

 リディアは辺りを見渡し、大きな樹木の幹に、なんとか身体を隠せそうなウロを見つけ、イチかバチか、その木のところまで這っていき、必死に自分の身体をウロの中に押し込んだ。


「いたか?!」

「いや、さっきはこちらの方から声がしたんだが……」


 間一髪、リディアはほとんど息を止めるようにして必死に気配を殺すよう努めた。ウロから男達の履いている黒いブーツがいくつか見える。


「なぁ、あの女捕まえてどうすんだ?」

「俺が知るかよ。とりあえず最終的に殺した事が確実であればどーしようと構わないってさ」

「お、じゃあ俺が貰ってもいいか?結構可愛い顔してたからさぁ!死ぬ前にちょっとくらい、いいだろ?」

「最期の思い出がお前となんてさすがにあの子に同情するぜ」


 見つかれば殺されてしまう。もしかしたら死んだ方がマシだと思うくらいに酷い目に遭うかもしれない。ゾッとするような考えが頭に浮かんでしまい、恐怖で身体が震え、涙が止まらなかった。


「いいか、あの娘を殺さないと、殺されるのは俺達だからな」

「わかってるって」


 男達が方々に散っていったのを確認してから、リディアはおそるおそるウロの外へと這い出た。恐怖で荒くなった呼吸を必死に落ち着ける。辺りはなんの光も無く、気を抜けば呑み込まれてしまいそうな暗い闇がただ広がっているのみだ。


「お父様……エドマンド……」


 森の中に一人取り残され、心細さに心が折れそうになる。声をあげて泣き叫び、誰かに助けを求めたかったが、しかしまだ助けは呼べない。あの男達が声を聞きつけて、戻ってきてはまずい。

 足が酷く痛む。先ほどまで逃げるのに必死で気づかなかったが、石か何かで切ってしまったのか、右足に大きな切り傷ができて血が流れていた。身体のあちこちが痛み、泥だらけだ。

 今まで貴族の娘として大事に育てられてきたリディアにとって、まさかこんな事が人生で起きるとは思いもしなかった。


 (どうして?一体誰がこんな事を?)


 夜盗にただ襲われただけかと思っていたが、先ほどの話を聞く限り、彼らはリディアを殺すようにだれかに依頼されたようだった。

 敵が誰なのかは正直見当がつかない。そういえば先ほど、父が、馬車の中でカサンドラの父親であるノルデンドルフ卿について何か言いかけていた事を思い出した。

 今日の舞踏会で起きた事は、カサンドラがリディアをただ妬んで貶めようとしただけでなく、別の目的があったかもしれないと言っていた。


「……私だけで無く、お父様も殺そうとしていた?……狙いはブライスガウ家そのものという事?」


 本来ならば、リディアは舞踏会のあの場で婚約を破棄され、王太子殺害計画の罪でブライスガウ家は領地と爵位を没収される予定だった。しかしリディアが法廷での決着を申し出て、それをエドマンドが了承した。カサンドラにとってエドマンドがリディアの申し出を受けた事は想定外だったのだろう。だから今回のような暴挙に出た、そう考えると腑に落ちる気もする。


 (でも……彼女がここまでやるとは正直思えない)


 リディアを罠に嵌めるくらいならともかく、あのような男達を雇って襲撃させるにはそれなりの金と力が必要だ。そうなると、カサンドラだけではどうにも心許ない。

 協力者がいる、または別の者が首謀者であると考えるのが妥当だろう。


「……ノルデンドルフ卿が……?」


 考えても考えても確信は得られなかった。なにせ、手がかりなど殆ど無いのだから。

 

「リディア様?」


 考えに没頭しているところで不意に背後から声をかけられ、リディアは思わず悲鳴をあげそうになった。

 振り返ると、そこにはアロイスが立っていた。見知った顔に、思わず体の緊張が解ける。安堵のあまり、リディアはアロイスに飛びつき、そのまま泣き崩れた。


「あ、アロイス……っ!無事だったのね?!よかった……よかったっ……!お、お父様は?アイツらは一体何なの?!」

「リディア様、落ち着いてください。ほら、ゆっくり深呼吸をして」


 アロイスに言われるがまま、大きくゆっくりと息を吸う。顔についていた泥と涙を優しく拭われ、先ほどまで勢いよく跳ねていた心臓も少しだけ落ち着きを取り戻した。


「私は、馬車から少しはなれたところで護衛していたのですが、奴等はいきなり森の中から現れたのです。そして馬車や周りの従者を襲い……。私が駆け付けた時には馬車はもうすっかり燃えていました、おそらくお父上様はもう生きてはおられないかと……」


 悲痛な面持ちでアロイスが呟く。

 覚悟していたつもりだったが、どうしようもない現実を突きつけられ、再び涙が滲んだ。


「そんな……どうして?どうしてお父様がこんな風に殺されなくてはいけないの?国の為、必死に働いてきた人よ!誰にでも優しい、善人だったわ!殺されなければならない理由なんて何一つないのに、どうしてよ!!」


 まるで子供のようにわんわんと泣き喚いてしまいそうだった。しかし、アロイスの胸元を叩いて嘆いても現実は何も変わらない。


「リディア様……とにかく、ここから離れましょう。私の馬があちらにいますから、そこまで歩けますか?」


 アロイスに腕を引かれ、リディアは歩き出した。素足が地面を踏み、ひんやりと冷たい。 


「……絶対に許さない」

「リディア様?」

「お父様を殺した奴を。私をこんな目に合わせた奴を。絶対に犯人を探し出してやる。こんな蛮行を神がお許しになるはずがないわ。犯人は地獄の炎に焼かれるべきよ!」


 必ず今回の首謀者を見つけ出し、父の亡骸の前で跪かせてやると、仄暗い復讐心がリディアの心で燃え盛っていた。 


 しばらく二人は無言で暗い森の中を歩き続けた。先程の男達は随分遠くまで行ってしまったのか、あたりに人がいる気配もない。どうやら近くに川があるようで、水の流れる音だけが聞こえてくる。


「アロイス、先程から随分と歩いているけれど、貴方の馬はどこにいるの?」

「もう少しです。歩かせてしまって申し訳ありません」


 二人はなだらかな坂を随分長く上っていた。知らぬ間にかなり高い場所まで来ていたらしく、横は切り立った崖になっており、下の方に川が見える。


「リディア様、着きましたよ」


 アロイスが振り返る。リディアはアロイスの手を掴もうと手を伸ばした。


 しかしそこでふと、気が付いた。――近くのどこにも馬の姿がない。


 アロイスに「本当にここなのか」と問おうしたその時、ドン、と音がして鳩尾の部分に、燃えるような鋭い痛みが走った。


「……な、に?」


 目線を下げると、銀色に光る刃がリディアの腹部に突き刺さっていた。

 そしてそのナイフの柄はアロイスの左手に握られている。

 何が起きているのかわからなかった。

 刺さっている刃とアロイスの顔を交互に見比べる。アロイスは俯き、その表情からは何も読み取ることはできなかった。


「……これ……」

「貴女は、私を許さなくていい」 


 

 衝撃。


 

 アロイスがリディアを力の限り突き飛ばし、リディアの身体は崖から空中へと放り出された。

 伸ばした手は虚空を掴み、体はそのまま重力に従って落下していく。


 

 ――どうして。


 アロイスが今、どんな表情をしているのか見たかったが、それは叶わなかった。

 身体が水面に叩きつけられる衝撃がくる前に、リディアは絶望と共に意識を失った。

 

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