婚約破棄なんて認めない

「リディア……君たちはそこで何をしているんだ?」


 聞き覚えのある声が聞こえ、リディアは大急ぎでアロイスから距離を取った。

 大広間から出てきたエドマンドが悲しみと怒りを滲ませた表情でリディアを睨みつけている。


「エドマンド !何って……ただアロイスと話をしていただけよ。どうしたの?なぜそんなに怒っているの?」


 先程アロイスに告白されてしまった手前、少し気まずかったが、リディアはアロイスの事をなんとも思っていないのだし、二人の間に決してやましい事はない。リディアは問題ないと判断したが、エドマンドは今まで見たこともないような恐ろしい表情をしている。


「そこのお前、リディアから手を離せ。……話?こっそりと庭で、二人きりで?……一体どんな話をしていたんだか」


 口元を歪め、鼻で笑ったエドマンドの表情を見てリディアはショックを受けた。それに、普段のエドマンドは決して他人を「お前」呼ばわりなどしない。


「何が言いたいのよ、エドマンド 。言いたい事があるならはっきり言ったらどうなの?」


 よくわからない言いがかりをつけられ、リディアはイライラしながら腕を組み、そう言い放つ。普段のエドマンドであれば、リディアが少しでも怒った素振りを見せれば、すぐに「ごめん」と謝ってくるものだが、今日は少し様子が違っていた。


「そうだね。いいよ、はっきりさせよう。君は僕の婚約者のはずだ。それなのに、そこで騎士と逢引きをしていたように僕は見えたが、その理由を聞かせてもらえないか」

「気分がよくなかったから外にでていただけ。何か問題でもあるかしら?」

「そうかな、僕には二人がなんだか抱き合っているように見えたよ。……僕は君を信じてた。何が起きてもきっとそれは自分の勘違いだと言い聞かせてた。ずっとね。でも、こんな風に真実を見てしまっては、もう、仕方がないんだ……」

「エドマンド?一体どういう……」


 エドマンドはリディアの言葉を聞かずに、後ろについてきていたカサンドラを呼びつけた。なぜここでカサンドラが呼ばれたのか、リディアには皆目検討がつかなかった。全く予想だにしていなかった人物の登場に、リディアは驚く。周りを見ると、騒ぎを聞きつけて野次馬が集まり始めている。


「殿下……」

「いいんだ。君が聞いた事を教えてくれ」


 カサンドラは少し躊躇った後、おずおずと口を開いた。


「私は聞いてしまったのです。リディア様は……殿下のお食事に毒を少しずつ入れてくれと侍女にお頼みになられていました」

「なっ……!」


 あまりにも荒唐無稽な嘘に、リディアは驚き、しばらく言葉を失ったが、次に湧いてきたのは怒りだった。よくもそんなデタラメを言えたものだと、怒りで手がぶるぶると震えている。


「貴女、一体何を言っているの?馬鹿も休み休みに言いなさい!私がエドマンドを毒殺しようとしたなんて、誰がそんな嘘を信じるものですか!そんな大それたことをいうのなら、もちろん証拠はあるのでしょうね?」


 リディアが叫ぶと、カサンドラは一人の少女を呼び出した。その少女は、リディアの世話をする侍女の一人で、リディア自身にも見覚えがあった。一年前ほどに雇い始めた娘で、裁縫が得意だった子だ。少女は青ざめた顔をしながら何かを握りしめている。


「殿下にお見せなさい」

「は、はい」


 侍女はカサンドラにうながされ、手に持っていた紫色の小瓶をエドマンドに見せた。もちろん、リディアにはこんなもの、全く覚えがない。


「リディア様に……これを渡されました。健康の為の薬だから、殿下がお茶をする時に殿下のカップに一滴、垂らすようにと言われて……でも私、中身なんて知りませんでした!それで……」


 侍女は涙目になり、リディアの足元に跪くと、そのまま頭を床につけて「申し訳ありません!!お許しください!」と泣き出した。恐ろしい告白にリディアが何も返せないでいるうちに、周りにはすっかりギャラリーが増え、皆がリディアに注目していた。

 一体、何がどうなっているのか。

 リディアは混乱していた。わけのわからないデタラメ話が披露され、皆はそれを疑う事なく鵜呑みにしている。

 リディアが何も反論してこないのを確認すると、次にカサンドラは胸元から小さなメモ用紙のようなものを取り出した。


「その子が”薬”をお二人のアフタヌーンティーの際のティーカップに垂らした後、殿下が体調を崩されました。そこでこの子は違和感を覚えたのでしょうね。それで私は相談を受けたのです。だから気になって、リディア様の事を少し調べさせて頂きました。すると、お部屋にはこんな手紙がありましたの。手紙には、そちらの騎士殿宛てに、婚約を破棄するためにはどうしたら良いかと書かれていたのです」


 ギャラリーがざわついた。皆口元を扇で隠し、信じられないといった表情をしている。王太子の毒殺など、大罪だ。しかもそれを婚約者が行おうとするなんて。

 カサンドラの言うことに正しい事など何一つ無かったが、この場にいる人たちは皆、リディアが見目麗しい騎士と一緒になるためにエドマンドを殺そうとしたのだということをすっかり信じ切っているようだった。

 確かに、リディアに指示されたという侍女の証言と毒の入った小瓶、リディアの部屋から見つかった手紙等、人々に嘘を信じさせるには十分な物は揃ってしまっている。そしてなにより不幸な事に、今アロイスがリディアの隣に立っている事が、この茶番劇にもっともらしさを与えてしまっていた。アロイスはこの王宮にいる貴族の男性の中でもっとも美しい外見をしている。刺激の欲しかった王太子妃が手を出してしまったのではと人々が邪推するには十分だ。


「馬鹿馬鹿しい!こんなもの、全て嘘に決まっているじゃない!まさか、エドマンド、こんなくだらない茶番を信じるって言うの?」

「実際、僕が君とのお茶会の後から体調を崩したのは事実だし、君を里下がりさせていた間、つまり、君が僕のお茶に細工をできない間、僕の体調はすこぶる良かった」

「とんだこじつけだわ!だいたい、どうして私が——」

「僕だって君を信じたい。しかし、先ほど君たちが抱き合っていたのを見てしまった今となっては……僕はもう君を信じられない」

「ち、違う!エドマンド、違うわ!それは誤解なのよ!」

「誤解?一体何が誤解なんだ?君はそこにいる騎士と抱き合っていたじゃないか!」


 エドマンドが大声を上げたり、誰かに怒ったりしているところを、リディアは今まで見たことがなかった。温厚で優しく、いつも笑顔を絶やさないそんな彼が、今は憎しみを込めた目でリディアを睨みつけている。その眼には涙が浮かんでいた。


「君は僕の事なんてとっくに愛してなかったんだ。僕が王太子だから、仕方なく隣にいただけで、本当はもうずっと僕から離れたかったんだろう?僕だけがずっと君を好きだったなんてあまりにも惨めすぎるじゃないか。どうして言ってくれなかったんだ。そうしたら僕だって、何か出来ることがあったかもしれないのに!!」

「エドマンド、話を聞いて」

「寄るな!」


 リディアがエドマンドに近づこうとすると、エドマンドは大きく声を上げた。エドマンドがこんな風に怒るという事も、そもそも人に対して負の感情を見せるというところすら見たことがないリディアにとっては衝撃的な出来事だ。


「リディア・レーゼル・フォン・ブライスガウ!僕は君との婚約を破棄する!!」


 その場にいた誰もが息を呑んだ。皆口元を抑え、しばらく黙り込んだ後、ざわめきがさざ波のように広がっていく。


「そして、君が僕に毒を盛った事については……本来ならば決して許される事はない。死罪が妥当だ。しかし……僕はかつて君を心の底から愛していた。こんな風に、君に裏切られてもなお君の事をすっぱりと切り捨てることはできないくらいに。だから君への最後の情けとして、命だけは取らないでおいてやる。その代わり、ブライスガウ家の領地、爵位を剥奪し、君たちの王都への立ち入りを今後一切禁ずる!!」

「なっ……!!」


 リディアは言葉を失っていた。リディアの声をエドマンドが全く聞き入れてくれず、一方的に婚約を破棄された事のショックが大きく、先ほどから状況の変化に頭が全くついていけていない。


「もちろん、現在小議会の一員である君の父上には議員を辞めてもらう。今まで王国の為に尽くしてくれたブライスガウ卿とこのような形で別れる事になるとは誠に残念だが……」

「お待ちください!エドマンド様!これは何かの間違いでございます!」


 叫んだのはフローレンシアだった。


「リディアがそんな事をするはずがありません!その事を一番よくわかってるのはエドマンド様、貴方ではないのですか?!だいたい、その証拠だって本物かどうかわかりませんし、あまりにも一方的な決めつけです。一度冷静にお考え直しいただきたく存じます!」

「フローレンシア……」

「リディアも!何か言ってやりなさいよ!こんな事絶対におかしいわ!」


 フローレンシアが呆然としたままのリディアの手を掴む。先程からリディアが何も反論しないことに憤っているようだった。


「リディアが、貴方を裏切って毒を盛るですって?馬鹿馬鹿しい!私がどんなに別の人を薦めても、断り続けてきたのがリディアよ!天地がひっくり返っても、それだけは絶対にあり得ないわ!」


 フローレンシアは怒りで興奮しているのか、その目には涙が浮かんでいた。目の前にいるのが王太子であるのにも関わらず、まるで自分の事のように怒ってくれる彼女の優しさに勇気づけられる。そう、このまま怯んでいたままではダメだと、リディアは自らの頬を叩き、正面からエドマンドを見据えた。


「……エドマンド様、私は今回のことを全面的に否定致します。フローレンシアの言う通り、そちらの証拠だって本物かどうか怪しい物です。将来、国を統べられる方であるならば、どちらの言い分もしっかり聞くのが筋というものだと思います」


 リディアの言葉に、カサンドラが眉根をつりあげる。


「まぁ、私の持っている証拠が捏造されたものとでも言いたいのかしら?罪人風情が、一体今更何を言うつもりかと思えば……」

「……わかった、君の言い分を認めよう」

「エドマンド様?!」


 エドマンドがひとまず訴えを聞き入れてくれたことにリディアは安堵した。先ほどまで余裕の笑みを浮かべていたカサンドラはエドマンドがリディの要求を受け入れた事に動揺しているようだった。


「しかし、君が無実を訴えるというのなら、それなりの証拠を見せてもらわなければ困る。一ヶ月後、裁判を行う。それまでに反論できるだけの証拠を揃えてくる事だ。それができなければ、先程言った通り、領地を剥奪し、爵位もとりあげる。良いね?」

「はい。それで構いません。機会を頂けた事、感謝しますわ」


 リディアが頭を下げると、エドマンドはその場を立ち去った。周りにいる貴族達も、好奇の目を向けながらもリディアを遠巻きにして城の大広間へと戻っていく。カサンドラだけが苦虫を潰したような顔でリディアを睨みつけて立っていた。


「カサンドラ」

「……なんでしょう?」

「私、口喧嘩では負けた事がないの。もし貴女が私に勝とうと思っているのなら、とんだ大間違いよ。それじゃあ、法廷で会いましょうね」


 カサンドラの表情が大きく歪む。少しだけ胸のすぐ思いを覚え、リディアはその場から素早く立ち去った。


 

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