第二章

新しい出逢い


 ――水の流れる音がする。


 覚醒しきらない意識の中、生ぬるい川の水がリディアの身体の周りをゆっくりと流れていた。あちこち痛む身体を河の穏やかな水流が撫でてくれるようで気持ちが良い。瞼は重く、思考はまだぼんやりとしている。しばらく横たわったままその心地よさに浸っていると、誰かの手が、リディアの中指にはまっていた指輪をどうにかして外そうとしているのがわかった。あまりにもぐいぐいと引っ張るので、まどろんでいた頭がすっかり覚醒し、指から指輪が抜けるのと、リディアの瞼が開いたのはほぼ同時だった。


「うわっ!」


 まだ少し幼い声が驚きの声をあげた。

 開いた瞼の隙間からぼんやりと見えたのは赤毛の少年だ。

 恐らく、リディアの事を流れ着いた死体とでも勘違いして、持ち物を漁っていたのだろう。それがいきなり目を開けたのだから、驚くのも無理はない。

 少年は抜き取った指輪をポケットにしまいこむと、脱兎のごとく逃げ出した。


「ま、まって……」


 少年を追おうとしたが、酷い頭痛に、身体中のあちこちが痛くて追いかける事ができなかった。呼吸するたびに肋骨のあたりが鈍く痛むので、もしかしたら肋骨が折れているのかもしれない。

 自分が突き落とされる前にナイフで刺された事を思い出して、おそるおそる腹部を見てみたが、特に出血している様子はなかった。ただ、ドレスとコルセットには刃物で切り裂かれたような傷がついている。幸運なことに、コルセットのボーンの固い部分がナイフから守ってくれたようだった。


「生きてる……」


 リディアは大きくため息をつくと、河原のところに座り込んだ。びしょ濡れでドレスはボロボロ、顔には髪が張り付き、切り傷が体のあちこちにある酷い有様だが、命が助かったのは間違いない。安堵すると共に気が抜けたのか、一気に疲れが押し寄せてきた。

(これから……どうしよう)

 森の中に一人取り残され、リディアは途方に暮れていた。そもそも、自身の身に何が起こったのかすらまだよくわからないままで、正直まだ悲しむ余裕すらない。

 道中で野盗に襲われて父を殺され、無事助かったかと思えば、信頼していた騎士のアロイスにナイフで刺されて崖から突き落とされた。

 そのまま川に流され、この河原に流れ着いたが、これからどうすべきか全く見当がつかない。逃げている最中に耳にした野盗たちの話から考えてみると、誰かがアルブレヒトとリディアを殺そうとして彼らに依頼した可能性が高いが、そうなると、もしかしたらこれからも命を狙われ続けるのかもしれない。

 味方だと思っていたアロイスがリディアを殺そうとした理由と目的も全く不明であるし、いつからそれを計画していたのかも見当がつかず、何もかもがわからない事ばかりだった。

 

 考えを巡らせていると、腹部がぐうと鳴って空腹であることを告げた。こんな時にでも身体というものは正直で、生きる意志があるものらしい。

 疲れ切った身体を叱咤し、立ち上がる。

 周りを見渡すとブナの木が生い茂り、見たことのない植物があちこちに生えていた。ずいぶんの森の深いところまで来てしまったような感じがする。馬車が襲撃された場所もわからないし、川に落ちてからどれほど流されたのかもわからない。すっかり道に迷ってしまっていた。


「何か……煙の臭いがするわ」


 すん、と匂いを嗅ぐと、煙の臭いが微かに鼻をかすめた。もしかしたら近くに人がいるのかもしれない。

 匂いを頼りに草が生い茂る獣道を進んでいくと、馬車一台くらいであれば通れそうな林道へとたどり着いた。奥から、先ほどの煙の匂いに混じって、肉を焼いたような良い匂いがする。奥に荷馬車が一台、停めおかれている事に気づいた。その横で、親子だろうか、女と子供が火を焚いて休んでいる。

 

「あの……」

 

 突如後ろから声をかけられ、女はひどく驚いていた。トパーズ色の瞳が訝しがるようにリディアを見つめている。すぐそばにいた子供は腰元のナイフを取り出し、リディアの方へと向けていた。


「誰だっ!」

「ま、待って、私は」

「よしな、クルト」


 女の声で少年が動きを止めた。


「どう見たってアタシらに助けを求めてるお嬢さんじゃないか。もう少し優しくしてあげな。ほらナイフをしまって」


 クルトと呼ばれた少年は不満そうにナイフを収めた。クセの強い赤毛で鼻のところにそばかすが広がっている。よく見ると、その少年の顔にリディアは見覚えがあった。先ほどリディアの指輪を盗んでいった少年に似ている。


「……あなた!さっき私から指輪を取っていったでしょう!?」


 リディアが叫ぶと、少年は思い出したのか、「しまった」という顔をして逃げ出そうとした。しかし、そんな少年の首根っこを女ががっしりと掴む。


「指輪ってのはどういうことだい?!クルト、盗ったものをとっとと出しな!」

「いたたた、離せよタリヤ!」


 ひっぱられて真っ赤になった耳をさすりながら、少年はポケットに手を突っ込み、小さなサファイアのついた金の指輪を取り出した。それは確かに先ほど指先から盗まれたリディアのものだった。


「アンタは……っ!盗みはするなっていつも言ってるじゃないか。アタシらは商人なんだ。その事に誇りを持てないでこんなことするならいっそ勝手に盗賊にでもなっちまいな!」


 叱りつけられた少年はバツの悪そうな顔をしてうつむいていた。女は少年の手から指輪をひったくると、リディアの手のひらにそれを置いた。


「すまなかったね、ほれ、アンタの指輪だ、返すよ」

「あ、ありがとう」


 まさか指輪を返してもらえるとは思っておらず、リディアは驚いた。どうやらこのタリヤという人は話がわかる人間のようだ。


「アタシはタリヤ。お嬢さん、名前は?こんなとこでどうしたんだい?」

「り、リディアよ。……足を踏み外して、川に落ちてしまったのだけれど……ここはどこなの?」


 タリヤはリディアを訝しむようにジロジロと見つめた。


「ここはマリベルの森、もう少し行くとバルトリ市場街があるよ」

「バルトリ?……ということは、ここはロイアント自治領なの?」


 ロイアント自治領はカレドニア王国南東に位置する、商人たちによる小さな特別区だ。関税が撤廃されている為に多くの商人が集まり、ありとあらゆる品物がここで売り買いされている。カレドニア王国の商業の中心地と言ってもいいだろう。商人たちが力をもつこの地域では、貴族の肩書など何の役にも立たない。必要なものは金、それだけだ。噂には聞いていたが、実際にこの地にやってくるのは初めてだった。

 ロイアント自治領を更に東に行けばブライスガウ領土内だが、リディアの館があるトシュカの街に着くには、少なくとも馬車で丸一日はかかる。ここから一人で故郷に戻るにはだいぶ難しいであろう事は簡単に予想がついた。


 タリヤは首元に商人が街で売り買いをするための商人札をぶら下げていた。停めてある荷馬車には織物やたくさんの袋が積まれており、どうやら行商人のようだ。彼女にお願いすれば、ここからブライスガウまで送ってもらえるかもしれない。


「あなたは商人?」

「あぁ、行商をやってる。さっきのは息子のクルト。バルトリ市場街へ行く途中でね。ところで、こっちは色々話したんだ、そろそろアンタのことを話してくれてもいいんじゃないのかい?どうみてもただの川遊びってわけじゃないだろう?」


 やはり色々とお見通しだったらしい。本当の事を話すべきか悩んだが、先ほど指輪を返してくれた事といい、悪い人では無さそうだった。

 他にすがるあてもないので、リディアはタリヤを信じてみる事にした。


「私はリディア、リディア・レーゼル・フォン・ブライスガウ。ブライスガウ家の者よ。王都から家に戻るところだったのだけど、途中で野盗に襲われてしまって……、なんとか逃げ延びたけど、川に落ちてここまで流されてしまったの」

「ブライスガウってあのブライスガウ家かい?!大貴族様じゃないか、そりゃあ災難だったね」

「それで、お願いがあるのだけど、私をブライスガウのトシュカの町まで馬車で送ってくれないかしら?」

「そうだねぇ……。助けてあげたいのは山々だが、それは少し難しいかもね」


 てっきり引き受けてくれるだろうと予想していたリディアは、口を開けたまま、一瞬動く事ができなかった。


「ど、どうして?!送って行ってくれるならこの指輪をあげるから!かなり値打ちがあるものなのよ?足りないなら館に着いてから追加でお金を渡すわ、それならどう?」

「お嬢さん、私達は行商人なんだ。私たちはこれから市場に行ってこの商品を売らなきゃいけないのに、ここからブライスガウまでアンタを送って行ったらせっかくの品物が無駄になる。その損害は指輪一つでは埋め合わせられないだろうし、もっと貰おうにもアンタにその分の金があるとは思えないね。アンタ、ブライスガウ家なんだろう?そのブライスガウ家はついこの前、領主様が亡くなって王家に土地をとりあげられたって聞いたんだがね」

「土地をとりあげられた……?」


 タリヤから更に衝撃的な事を告げられ、リディアは動揺していた。

 父のアルブレヒトが殺され、そこから王家にすぐ連絡がいったとしても、土地の没収が決定するにはあまりにも早すぎる。

 そもそも、現当主が亡くなっても後継者としてヨハネスがいるはずで、それを飛ばしていきなり領地の没収となるのはおかしな話だった。


「領地を取りあげられたんなら、たとえアンタが本当にブライスガウ家のお嬢さんだとしても、私達に支払う金なんてない可能性が高い。つまり、私達は損する可能性はあっても得する可能性は少しもないってことさ。申し訳ないけど、他をあたっておくれ」

「そんな!こんなに困っている乙女がいるというのに見捨てるというの?」

「善行は余裕のある奴がするもんさ。私らは商人、そこまで懐が潤ってるわけでもないんでね。大事なのは何事も対価に見合うかどうかってこと。今の所アンタを助けて私らが得する事は何もない。まぁ、バルトリ市場街に一緒に連れて行くくらいならできるがね。それ以上の手伝いはできかねるよ」


 薄情ではあるが、タリヤの言うことは最もだ。


「……わかったわ、それじゃあこの指輪を渡すから、着替えと何か食べるものを私に売ってちょうだい。そしてあなた達の行くバルトリ市場街まで、私も一緒に連れて行って」

「へぇ、貴族のくせに、話がわかるお嬢さんじゃないか。いいさ、それだったら引き受けよう」


 タリヤは上機嫌で指輪を受け取ると、綿のレースがあしらわれたドレスを引っ張り出してリディアに渡した。正直ドレスというにはあまりにも質素で、リディアの渡した指輪の価値と見合うものでない事はあきらかだった。


「ちょっと!こんなドレスじゃ私のあげた指輪の対価として見合わないわよ。あなた、商人なんでしょう?物の価値についてなら詳しいんじゃなかったの?」

「バカだねぇ、お嬢さん。その指輪が高価なものだってのは私も重々承知してるさ。でもね、この指輪と同じくらいのドレスを着て街を歩くなんてのは、金品財宝を私から奪ってくださいって言ってるのとほとんど一緒だよ。一ブロック歩くまでもなく、全て剥ぎ取られるだろうね。それでも良いんだったら絹の上等なやつを渡すさ」


 貴族の娘として、お行儀の良い世界で生きてきたリディアにとっては思いつきもしない事だった。そう言われてしまえば、反論はできない。


「ドレスの代金と、食べ物、あんたをしっかり街まで届けて、宿を手配する。指輪の対価としてはこんなもんかしらね」

「タリヤ、本当にこいつ連れてくのかよ。ブライスガウ家の娘だなんて、嘘かもしれないじゃねぇか」

「そこんとこはあたしらには何も関係ない事さ。代金をもらったんだから、その分の仕事はしないと。きっちり護衛しなよ、クルト」


 クルトは不満げだったが、タリヤには逆らえないようだ。手に持っていたスープを飲み干すと、そのまま器を持ってどこかへ行ってしまった。


 


 

 

 

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