囚われの騎士
――兄さん!
幼い弟の声が聞こえる。
声変わりにはまだ早いボーイソプラノの声が響いている。弟――ルイスは、眠っているアロイスに声をかけているようだった。
何度も「早く起きて」と言いながら、アロイスが目を覚ますのを待っている。
しかしそれを理解すると同時に、アロイスは、今、自分は夢を見ているのだという事がわかった。
なぜなら、弟のルイスは死んでいるからだ。
もう五年も前に、弟は自分を置いて逃げた母と共に森の奥で狼のエサになっている。
アロイスの身内と言ったら、今はもう妹一人だけだ。その妹も身体が弱く、もうずっと寝たきりである。
(俺は周りの人を不幸にしてばかりだな……)
ついこの前まで仕えていたリディアも、アロイスの裏切りによって崖から落ちて死んだ。もともとそういう予定であり、覚悟はしていたというのに、思ったよりも自分がブライスガウ家での暮らしに馴染んでしまったせいなのか、高飛車だがどこか憎めないお嬢様の隣の居心地が思ったより良かったのか、今となって心が酷く痛んでいる。毎日あの夜の事を思い出すし、リディアの悲痛な表情がアロイスの頭から離れない。
「――イス、アロイス!」
「は、はいっ!」
返事をした途端、強い衝撃と共に背中を蹴り上げられた。前につんのめり、そのまま床にどうと倒れる。後ろには、ドレイクが不満げな顔をしてアロイスを見下ろしていた。
「何をぼーっとしている。貴様の落ち度でヨハネスが逃げたのだぞ。どうやってあの子供の始末をつけるつもりだ」
「ドレイク様、も、申し訳ありません」
額を床につけ、アロイスが土下座をしようとすると、ドレイクの足がアロイスの頭を踏みつけ、そのまま床へと押し付けた。ぐりぐりと踏み躙られ、頬が床に擦れる。ドレイクが酷い暴力を振るう事に幼い頃から慣れているとはいえ、今回はなかなかに酷い。明日は一日起き上がれないかもしれないとアロイスは覚悟を決めた。
「あの子供が生きていては困ると、私はお前に言ったはずだ、そうだな?」
「はい、その通りです」
「それなのにこのザマはなんだ?乳母と共に逃げただと?それを!防ぐのが!お前の仕事だろうが!!」
容赦ない蹴りがアロイスを襲う。必死に身体を丸めて、襲いかかる暴力から身を守ろうとする。しかし、髪の毛を鷲掴みにされ、顔を無理やりあげさせられると、二発、平手打ちをくらった。強い衝撃で頭がくらくらする。
「お前の妹が今でも生きているのは誰のおかげだ?親も家も失ったお前とその妹を保護してやったのは我がノルデンドルフ家だろう?それなのに、こんな簡単な仕事一つこなせないのか、貴様は!」
「本当に、申し訳ありません!」
「今すぐにお前の妹を売り飛ばしてやってもいいんだぞ。あいつの治療費にいくらかかってると思っている。妹が役に立たぬなら、せめてその兄が務めを果たすのが当然だろうが!」
ドレイクは怒りが収まらないのか、そこに置かれていた椅子を手に取ると、アロイスへと叩きつけた。盛大な音と共に、あちこちに木片が散らばる。叩きつけられた背中の痛みを、歯を食いしばって必死に堪えた。
脳裏に、妹のクロエの姿が浮かぶ。今もきっとノルデンドルフの城の中で、一人孤独に耐えていることだろう。しかしそれでも生きていてくれさえすれば良い。そう思って自分はこの道を選んだ筈ではなかったか。
「この恩知らず、恥知らず……!次に私を失望させてみろ、本当にお前の妹を売っぱらってやる!あの娘も、お前と一緒で見てくれだけは良いから、高く売れるかもしれんぞ、お前らにはそれくらいしか取り柄がないからなぁ!」
下卑た笑い声をあげながら、ドレイクは去っていった。
アロイスはゆっくりと起き上がる。身体は軋み、悲鳴をあげていた。口の中に溜まった血を吐き出すと、思わず悪態も一緒にこぼれでた。
こんな扱いにはなれている。
怒りと悔しさを、必死に押し殺しながらアロイスは立ち上がった。
アロイスは幼い頃に父を失い、家が没落してからずっとノルデンドルフ家の所有物だった。母は美しさを買われてノルデンドルフ卿の妾になったが、ある日突然、弟だけを連れて逃げ出した。結局二人は森の中で狼に襲われて亡くなり、アロイスは幼い妹と共にノルデンドルフ家へと引き取られた。と言っても、そこには二人への優しさや同情などは一切無い。ノルデンドルフ卿は二人の容姿の良さに目をつけ、いつかなにかに使えるだろうと考えて引き取っただけの事だった。
実際、アロイスは宮廷で知らない人はいないほどの美男として成長し、そしてそれは、リディアの懐へ潜り込む時に最高の効果を発揮したのだから、ノルデンドルフ卿の見立ては正しかったと言えるだろう。
――お前のその容姿の美しさは力になる。権力や富と同じだ。賢く使え。
昔、ノルデンドルフ卿に言われた言葉だ。お前がもう少し醜かったら、狼の餌にしていたと、あの男は、幼いアロイス達に向けて悪びれる様子もなく言った。
「何が、美しさは力だ。俺は今、こんなにも無力だっていうのに」
拳で床を叩く。
妹と二人で生きていければ、アロイスはもう何も望まなかった。しかし、周りがそれを許してくれない。病弱な妹は適切な治療と薬が無ければ生きていけないし、そして今その命綱を握っているのは主人であるノルデンドルフ卿なのだ。
やり場のない怒りが身体の中で暴れ回っている。
気づけば、床を叩く自らの拳が、真っ赤な血に濡れていた。
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