苦労人ディードリヒ

「おはようございます、旦那様」


 庭の薔薇に水をやっているザルツブルク公に声をかけたのはディードリヒだった。いつものように短い黒髪はきちんとセットされ、清潔感にあふれている。ブルーグレーの瞳は涼やかで、スタンドカラーのシャツのボタンはキチンと上までとめられており、どこからどう見ても騎士として申し分ない姿だった。ザルツブルク公はディードリヒの姿をみとめると、朗らかに顔を綻ばせた。


「あぁ、ディードリヒか。おはよう」

「お嬢様のご様子は如何ですか?」

「だめだ。今日もベッドから出てこないよ。君の呼びかけにも応じていないんだろう?」

「はい。昨日もお部屋の外から声をお掛けしたのですが、返事をしていただけず。使用人に聞いたところ、ここ数日、お食事も受け付けていないようなんです」


 先日ブライスガウに行ってから、フローレンシアは悲しみのあまりすっかり引きこもってしまっていた。ブライスガウにたどり着いたのはいいものの、結局明らかになったのは親友であるリディアの死が決定的になってしまった事と、その弟のヨハネスまで行方不明になってしまったという悲しい事実だけだ。


「仕方あるまい……。あの子はリディアと仲が良かったから。それしても、ブライスガウ卿が亡くなり、ヨハネスまで行方不明になってしまうとは。あまりにも不幸な事が連続しておこるものだ。ヨハネスがいなくなれば後継不在、そうなれば別の者を辺境伯としてブライスガウ領に据えなければならない。仕方がないとはいえ、辛い事だよ」

「それにしても、なぜノルデンドルフ家がこの件に関して主導を握っているのでしょう。俺には理解できません」

「ノルデンドルフ卿はブライスガウ卿亡き現在、小議会で一番力を持っているお方だ。今小議会にいる貴族たちはノルデンドルフ卿ほど有能な方がおられない、そうすれば、当然の流れだろう」

「それは独裁状態ということではないですか。今までは少議会の中でブライスガウ卿が唯一の対抗馬でした。ブライスガウ卿があぁなったのは、もしかしたら――」

「ディードリヒ」


 ザルツブルク公が厳しい声でディードリヒの言葉を遮った。


「確かでない事は、あまりそうやって口にだすものではないよ」

「しかし……!」

「それに、ノルデンドルフ卿の独裁というわけでもあるまい。王がまだ、いらっしゃる。少議会の決断を最終的にお決めになるのは国王陛下だ。国の事は、しかるべき人たちがしかるべき事をやってくれていると信じるしかないのだ。君もそうしなさい。騎士である君の仕事は、私の娘、フローレンシアを守ることだ。決して国の政治に口を出す事ではないだろう?」


 ザルツブルク公はそう言ってバラの水やりを再開しようとしたが、ブリキでできたじょうろはもうすっかり空になっていた。


「そう、ですね……。出過ぎた真似をお許しください」

「わかってくれたならば良い。おそらく、娘が君にあれこれ吹聴した事もあるのだろう。とにかく今はあの子を支えてやってくれ。私は君を本当に信頼しているんだ」

「……旦那様、ありがとうございます。それでは、失礼致します」


 ディードリヒはモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、その場を立ち去った。

 ザルツブルク公の反応を見る限り、彼も、今の情況に疑いを持っている点もあるのだろう。

 しかし、ザルツブルク公は国の政治に関わる小議会のメンバーではない。王家の遠縁にあたる貴族の一族ではあるが、それだけだ。身分と地位こそあれど、権力はないに等しい。そんな中、今、力のあるノルデンドルフ家に睨まれてしまえば、何が起きるかわからない。家族の為に知らないふりをすると決めたのだろう、それならばまだ、ディードリヒの納得のできる範囲だった。


「今俺のやることは、フローレンシア様を守ること」


 ディードリヒは、自らに言い聞かせるように呟いた。



 ◇◇◇



「お嬢様ー、ご朝食ですよ、お嬢様ー?」


 ディードリヒがフローレンシアの部屋の前にたどり着くと、扉の前では使用人のサラが固く閉ざされた扉の前で朝食の載ったトレーを持ち、立ち往生していた。


「サラ?それは――」

「ディードリヒ様!ちょうど良いところに!お嬢様に朝食を持ってきたのですが、もう全然扉を開けてくださらないんです。もう三日目なんですよ!これでは餓死してしまいますわ!」


 サラはそばかすだらけの顔をほとんど泣きそうに歪めながら、ディードリヒに訴えかけた。扉の前の床には、おそらく昨日の夜差し入れられたものであろう夕食が、手つかずのまま置かれている。確かにこのままでは健康状態に支障がでてしまう。


「私、嫌ですよ。こんなことでお嬢様が餓死してしまうなんて!お嬢様の花嫁姿だってまた見ておりませんのに」

「サラ、落ち着いて。俺がどうにかするから」

 

 ディードリヒはそういうとポケットから小さな鍵を一つ取り出した。


「もしかしてそれは……」

「そう、部屋の鍵。旦那様が特別に貸してくれたんだ。お嬢様、今からお部屋に入りますよ?いいですね?」


 本来なら淑女の部屋に勝手に入るなど許されない事なのだが、今回だけは特別だ。ディードリヒがザルツブルク公から格別な信頼を得ているからこそ、できる事だった。


 鍵穴に鍵を刺して回すと、ガチャリと音がして扉が開いた。部屋の中はカーテンが締め切られており、暗い。サラは部屋の中に入ると早速カーテンを開き、部屋の中に光を招き入れた。すると、眩しい太陽の光に反応するように、ベッドの上のシーツの塊がもぞり、と動いた。

 ディードリヒはベッドの所に近づき、シーツの塊を見下ろす。シルクのシーツからは豊かな金色の髪がはみ出ている。


「フローレンシア様」

「……なに」


 小さいが、明らかに不機嫌な声で返事が返ってきた。


「せめて、お食事をお取りください」

「放っておいて。私は今、親友を失って絶望のどん底にいるのよ。なのにあなたは乱暴にも私の部屋にズカズカと入り込んで哀しみにも浸らせてくれないの?」

「お嬢様の哀しみは胸中お察しいたします。ですが、見てください。サラがお嬢様の心配のしすぎで死にそうです。可哀想だとは思いませんか。お食事さえ取ってくださればいいんです。無理に外に連れ出したりはしませんから」


 シーツの塊が動き、フローレンシアが少しだけ顔を出した。ずっと泣いていたのだろう、赤く腫れ上がった目が疑わしげにディードリヒを見上げている。


「……言っておくけど、サラの為よ」

「おわかりいただけてなによりです」


 サラとディードリヒはほっと安堵した。

 シーツの合間から、「ん」と手が差し出される。放っておいたが、フローレンシアが自ら起き上がる気配はない。ディードリヒはやれやれと小さくため息をつき、差し出された手を自らの首に掴まるように導いた。そのまま、フローレンシアの背中と膝裏に手を差し入れ、そのまま身体を持ち上げる。要するに、お姫様抱っこというやつだ。


「お嬢様、ご自分がおいくつか覚えておいでですか。ベッドから起き上がるくらいは自分でした方が宜しいですよ」

「うるさい。ディードリヒ、前から思ってたけど、まるで貴方、騎士というより乳母みたいよ。最近はぐちぐちと、小言ばかり」 


 文句が言えるのなら、なんとか大丈夫そうだとディードリヒは小さく笑みを浮かべた。しかし、この甘えたな性格はどうにかならないものだろうか。いくらディードリヒが主人に忠誠を誓った騎士の身分であるとはいえ、成人男性に抱っこをせがむレディというのは些か心配ではある。抱えている身体は、もう子供の頃とは随分違う。ふと、余計な事を考えそうになったが、すぐに意識の外へと振り払った。

 フローレンシアの身体をテーブルの所まで運び、そっと椅子に降ろした。テーブルにはサラがすっかり朝食の準備を済ませ、はちみつたっぷりのフレンチトーストにヨーグルト、りんごジュースが置いてある。どれもこれも、フローレンシアが好きなものばかりだ。


「お嬢様、私はこんな事しかできませんけれど、元気を出してくださいね。使用人皆、お嬢様を心配しています。私達はお側におりますから」

「サラ……」


 フローレンシアは涙を潤ませ、近くにあったハンカチで鼻をちーんとかんだ。


「ありがとう。そうよね、少しずつ元気をだすわ」

 まだ本調子ではないだろうが、フローレンシアはにっこりとサラに微笑みかけた。



 ◇◇◇



「少しは元気がでたようでなによりです」

「バカ、まだ全然元気じゃないわ。でも、サラやあなたが悲しむって言うんだから、少しでも元気になるように頑張るしかないじゃない」


 サラの作ったフレンチトーストを口に放り込みながら、フローレンシアは不満げに言った。しかしそんな態度をとりながらも、自らに仕えてくれる者達の思いはわかっているという事だ。主人の成長を感じて、ディードリヒはしばらくフローレンシアをじっと見つめていた。前はもっと華奢で、金色の髪も子供らしいくるくるとした巻毛だった。それがもう、金色の髪はゆるやかに巻かれ、顎もシャープになり、唇は果実のようにみずみずしい。


 (俺は……一体何を考えて)


「ディードリヒ、ねぇ、ちょっと!何をぼんやりしているのよ!」


 突然の問いかけと、自分が今まで考えていたことに動揺して、「は、はい?」と素っ頓狂な声が喉から発せられたのがわかった。


「だから、ヨハネスを探さなきゃ。どこを探せばいいかしら」

「ヨハネス様……ですか?しかし……」

「だって、まだ死んでしまった訳じゃないわ。リディアは助けられなかったけれど、ヨハネスはまだ生きてるかもしれない。少しでも可能性があるなら、私に出来ることがあるなら、したいの」


 真っ直ぐな瞳だった。


「そうですね……。おそらくまだ、ブライスガウ領土内、トシュカの街のどこかにいるのではないのでしょうか。子供の力だけでは動ける範囲は限られます。目撃者でもいれば良いのですが……」


 目撃者、という言葉でディードリヒの頭にアロイスの顔が浮かんだ。彼が城にいたのであれば、ヨハネスの側に着いていたはずだ。ドレイクが、ヨハネスはベッドから抜け出したと言っていたが、そのあたりのことももっと詳しく知っているのではないか。


「ブライスガウの城にはアロイスがいました。彼はヨハネス様を探すと言っていましたし、一度状況を聞いてみるべきでしょう」


「アロイス……。そうね、彼には聞かなきゃいけないことがたくさんあるわ。もー、私のバカバカ!それだったら前に行った時に全部話を聞いておくべきだったわ!」


 フローレンシアは頭を抱えて足をばたつかせた。


「そういえば、あの時はドレイク様が途中で話に割ってきていましたね」

「えぇ、そうだったわね。それが?」

「ドレイク様はもうアロイスの事を随分と知っているようでした。でも、それっておかしくないですか?ドレイク様とアロイスは今まで会ったことがないはずですよね?」

「確かに……そうね」


 ディードリヒの問いに、リディアも疑問を感じたようだった。


「二人は……もっと前から知り合いだったのかしら?まさか、友達?」


 あの時の様子を思い出すと、アロイスはなんだか怯えているように見えた。普段が無表情だっただけに、あんなアロイスの姿はディードリヒも見たことがなかった。


「友達には……見えませんでしたが」 


 やんわりとフローレンシアの意見を否定する。


「とにかく、損は急げよ。アロイスに話を聞きましょ」

「お嬢様、善は急げ、です」

「し、知ってるわ!間違えちゃったのよ!」


 皿の上にあった残りのフレンチトーストを口に詰め込み、フローレンシアは勢いよく椅子から立ち上がった。


「ディードリヒ、そこのコルセット、取ってちょうだい!」


 カウチの上に置かれているコルセットを指差した後、姿見の前でフローレンシアはネグリジェを脱ぎ、堂々とした姿で肌着とドロワーズのみの格好で立っていた。


「ほら、早く!」


 つまりは着替えを手伝えという事らしい。

 ディードリヒは大きくため息をついた。いくら自分がフローレンシアの騎士で、二人の間には忠誠と信頼しかなくとも、もう少し、危機感と羞恥心というものを持って欲しいような気もする。

 (まぁ、信頼されてるって事だよな……)

 ディードリヒはコルセットを手に取り、これも、忠実な騎士の仕事だと、自身に言い聞かせた。

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