第一章

辺境伯領の娘

「お嬢様!起きてくださいまし!!」


 無遠慮な声と共に、暗かった室内に燦々とした太陽の光がさしこんでいる。

 髪をまとめるキャップを被り、木綿の服にエプロンをつけた侍女、ヨハンナが勢いよくカーテンを開けると、部屋の奥にある大きな天蓋付きベッドの上で何かがモソリと動いた。


「お疲れなのはこの婆も十分承知しておりますが、今日は王宮に行かれる日ですよ!旦那様はもうすでに御出立されております。お支度をしなければいけないんですから、さぁ、さっさと起きた起きた!」


 ヨハンナが無理やりシーツをはぎ取ると、シーツの下には少女が身体を縮こませて眠っていた。

 いきなり外気に晒されて身体を震わせると、もう二度寝は無理だと悟ったのか、のろのろと起き上がり、身体を大きく伸ばす。

 

「朝から大声を出さないでちょうだい。昨日は夜遅くまで資料をまとめたりして大変だったんだから」


 そう言って欠伸をしながらヨハンナに抗議したのは、リディア・レーゼル・フォン・ブライスガウ、ブライスガウ辺境伯の娘である。

 くるくると巻いたブルネットの髪にすみれ色の瞳。歳は十八。

 陶器のような白い肌に、着ているネグリジェからは健康的な長い手足がすらりと伸びている。寝起きのせいで髪はぐしゃぐしゃの酷い有様だが、しかしそれでも、人をハッとさせるような美しさを持っていた。


「お仕事に熱中されるのはいいんですけどねぇ、お嬢様は未来の王太子妃様なんですから、お身体を大切にしてくださいませ。昨日だって何時にお眠りになられたんですか?ブライスガウ家のご令嬢なのに、働きすぎなんですよ。私たち使用人よりお嬢様の方が忙しいと、こちらの肩身が狭いったらありません」

「何言ってるの、未来の王太子妃だからこそこうして働かないといけないんじゃない。実力のない者についてきてくれるほど甘い世界じゃないわ。王太子妃の評価が王子の評価にも繋がるのだから、私だってできる限りのことをしないといけないのよ」

 

 ブライスガウ辺境伯領は、豊かな水と緑に恵まれたカレドニア王国の中でも広大な領土を持ち、隣国との境目で外交拠点になっている場所である。

 その為、リディアは幼い頃から外国語を学ぶ機会に恵まれ、今では通訳者として領主である父の仕事の手伝いをするまでになっていた。

 昨日はちょうど隣国との鉄鉱石に関する取り決めを結ぶ為の会議に同席しており、夜の晩餐会まで参加して、そのあとは夜中まで資料をまとめるという、些か忙しい日だった。


 ベッドから起き上がり、ドレッサーの前に座ると、ヨハンナが慣れた手つきでリディアの髪をとかしていく。

 乱れていた髪に薔薇のオイルを塗り込むと、髪が艶々と輝きだし、良い香りがふわりと漂う。艶のある、美しいブルネットの髪はリディアが自分の中で気に入っているところの一つだ。


「さぁ、できました。相変わらず美しい御髪おぐしですね」

「当然よ。エドマンドが私のこの長い髪が好きって言ってくれたんだもの。いつでも美しくしていなくては」

「今日の舞踏会のドレスは仕立て屋から届いております。あとは合わせるアクセサリーですがいかがされますか?」


 リディアの後ろには美しいサファイアブルーのドレスがトルソーに着せてあった。胸元と裾に銀糸で刺繍が施され、シンプルだがエレガントなデザインだ。


「そうね……サファイアのネックレスと、あとは……ダイヤのイヤリングを用意しておいてちょうだい」

「かしこまりました。……あのぅ、お嬢様。私なんかが口を出すのもさしでがましいですけれど、最近のドレスはもっとレースやらフリルがついているほうが好まれるようです。ですから、その、こんなにシンプルでいいんですか?せっかくの舞踏会ですのに……。いえ、もちろんこのドレスでもリディア様はお美しいですよ!でも、もっと可愛いドレスを着れば更に良いのではと、婆は思うんですがね」


 ヨハンナがブツブツと呟く。確かに、リディアの選んだドレスは今王宮で流行っているドレスに比べると、少しだけ華やかさにかけているように見える。

 最近の流行りはふわりとしたプリンセスラインに、リボンとレースをたっぷりあしらったボリュームのあるスタイルである。それに比べると、リディアのドレスは装飾もそこまで無く、Aラインのスカ-トで随分とすっきりとしている。

 なぜこうもヨハンナがドレスに対してあれやこれやと注文をつけているかというと、今日の夜は王宮でエドマンド王太子主催の舞踏会があるからだった。

 エドマンドが舞踏会を主催するのは珍しい。エドマンドは、読書や絵を描くのが好きで、あまり華やかな行事が好きではないからだ。


「あのエドマンド様が主催なんですよ、という事は……」

「わかってるわ、おそらく私との結婚の正式発表でしょうね」

「えぇそうです!だからこそ、もっとドレスも華やかなものが良いと思うんです!」


 先日来た招待状には、エドマンドの直筆で「大事な話がある」と走り書きがされていた。それを見て、リディアは確信していた。これは、幼い頃交わしたあの約束がついに実現するのだと。エドマンドもリディアも互いに十八歳になり、結婚するにはちょうどいい頃だ。そのため、いつ正式な結婚が発表されるのかとそわそわしていたところでもあった。


「違うのよ、ヨハンナ。どんなに流行りがあろうと、私は自分に一番合うスタイルを熟知しているの。私が着て、似合うアクセサリーをつければ、このドレスだって十分に華やかだわ。最近のは可愛らしすぎて私には似合わないもの。それに、このドレスは初めてエドマンドと出逢った時のドレスと同じ生地で作ってあるの。これ以上ないと思わない?」

「あら、まぁ!なんとそうでしたか!それなら仕方ありませんね。エドマンド様もきっとお喜びになるでしょう」


 リディアの説明にヨハンナも納得の表情を浮かべた。

 

「それにしても、エドマンド様、体調は良くなられたのですかね?つい先日まで、お嬢様にも風邪が感染うつるかも知れないと里帰りをおすすめしたくらいでしたし……」

「手紙には大丈夫と書いてあるわ。すぐ治って、今は普通に過ごしてるって。でも少し気になるから、この前手に入れた薬をいくつか持っていこうと思うの」

「それがよろしいと思いますよ。エドマンド様はお嬢様にこんなに思われて、本当に幸せ者ですねぇ」

 

 エドマンドが風邪を引いたため、少しの間実家に里帰りしていたリディアだったが、ちょうどそこで父の仕事の方も忙しくなり、慌ただしくしているうちに二月ふたつきほども経ってしまった。こんなに長い間顔を見なかったのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。それほどまでに、二人は小さい頃からずっと一緒にいたのである。エドマンドに会い、元気な様子を見て早く安心したかった。

 

「うっ……それにしてもこのコルセット、どうにかならないのかしら……淑女の嗜みといってもあまりにも窮屈だわ」


 ヨハンナに力いっぱいコルセットを締められ、思わずうめき声をあげる。美しさの為とはいえ、女性の身につけるものはなぜこうも窮屈なのだろう。

 コルセットを締め、ドロワーズを履いて絹の靴下を身につける。デイドレスを手に取ったところでコンコンと扉を叩く音がした。

 

「リディア様、アロイスでございます。お支度は整いましたでしょうか?」

「えぇ、少し待ってね……どうぞ!」


 リディアがちょうどドレスに着替え終わったところで、扉を開けて入ってきたのは、栗色の髪にサファイアのような青い目、背は高く、逞しい体つきの随分と見目の麗しい男だった。リディアの騎士であり、名前をアロイスと言う。

 元は北部の平民の生まれだったらしいが、剣の腕が立つので傭兵となり、貴族に取り立てられて剣士となったらしい。リディアの友人であり、ザルツベルク公爵家の令嬢であるフローレンシアから「腕の立つ剣士がいる」と紹介してもらい、リディアは一目見て彼を自分の騎士にする事を決めた。それがつい半月ほど前の事なので、まだまだ新米だ。


「おはよう、アロイス。今日の予定は?」

「今日はお昼までに王宮に向かわれ、旦那様の会議に同席予定です。舞踏会は夜からですが、フローレンシア様がその前に貴女の独身最後のお茶会をするから、絶対に来てねとの事です」


 特にメモを見る事なく、リディアの予定をアロイスがすらすらと答える。リディアが彼を騎士にしたのは、もちろん剣士として有能だったからだが、こういった有能な所も気に入っていたからだ。細かいところにもよく気が付くし、リディアの仕事の助手としても申し分がない。


「ありがとう。さてと、さっさと仕事を済ませてフローレンシアの所へ顔を出そうかしら。行かないと、あの子絶対に五月蝿うるさいものね。ドレス、これで大丈夫かしら?」

「ええ。リディア様はいつもお美しいですよ。それにしても今日はご機嫌ですね」

「そりゃそうよ!やっと正式なプロポーズを受けられるのよ。ご機嫌に決まってるじゃない」

「そうですか……。リディア様が嫁がれるというのは、俺はなんだか少し寂しいですが」

「あら、貴方もそんな可愛らしい事言うのね。サー•アロイス。大丈夫、私が王太子妃になっても、貴方はそのまま私の騎士として採用してあげるから」

「光栄でございます」

「あのねぇ、アロイス。少しくらい表情を作らないと、嘘っぽいわよ?」


 口では寂しいと言いながらも、アロイスは全く表情を崩さない。相変わらずの仏頂面、そこがアロイスの唯一の欠点だろう。もう少し笑顔でも浮かべる事ができれば、宮中の女性全員が彼の虜になるのは間違いないのに。


「アロイス!!」


 すると、突如かん高い少年の声がしたかと思うと、ドン、となにか小さいものがアロイスにぶつかった。アロイスが下を見ると、ふわふわのブルネットの髪が見え、こちらを見上げるすみれ色のぱっちりとした瞳と目が合う。リディアの弟であるヨハネスがアロイスの脚にぎゅうとしがみついていた。


「ねぇねぇ!今日こそ僕に剣を教えてよ!僕、もう明日には十一歳になるんだよ!いいでしょう?」

「……ヨハネス様」


 ヨハネスのおねだりに、アロイスが少しだけ困ったような表情を見せた。ヨハネスはアロイスに憧れているようで、隙をみつけてはこうしてアロイスにべったりくっ付き、僕にも剣を教えろと駄々をこねるのがもはや日常茶飯事となっている。

 

「こら!ヨハネス!アロイスは私の騎士なのよ?貴方にはちゃんと剣の先生がいるじゃない」

「やだやだやだ!だってアロイスのほうがかっこいいもん!」

「今日はダメ。アロイスは私と一緒に王宮に行かなきゃいけないの」

「姉上ばっかりズルい!いつもアロイスを独り占めだ!」

「仕方ないでしょう。……そうだ、明日は貴方のお誕生日だから、一日アロイスを貸してあげる、それでどう?」


 ほとんど涙目になっていたヨハネスの動きがぴたりと止まった。「本当に?」と言って目を輝かせている。


「えぇ、もちろん」

「やった!約束だからね!あのね、アロイス、僕、貴方みたいに強くなりたいんだ」

「ヨハネス様にそう言っていただけるのは、光栄でございます」


 ヨハネスに視線を合わせるために跪くアロイスの表情は、心なしかいつもよりも随分優しげに見える。

 ヨハネスは約束を取り付けた事に満足したのか、そのまま嬉しそうに走り去っていってしまった。

 

「ごめんなさいね、アロイス。あの子、貴方に相当憧れてるみたい。勝手に約束してしまったけど、大丈夫だった?」

「問題ありません。俺も、ヨハネス様の事は好きですので」

「そういえば貴方、ヨハネスには随分優しい表情をするわよね。もしかして、貴方、兄弟とかいたのかしら?」

「えぇ、弟に似ていますね。あんなふうに、弟も妹もいつも俺の周りをくっついていましたよ」


 ヨハネスが走り去った後を見つめるアロイスの表情は随分と穏やかで美しかった。その横顔のラインが完璧で、思わずリディアも見惚れてしまいそうになる。

 

「お嬢様、荷物は全て馬車に載せておきましたからね」

「あ、ありがとう、ヨハンナ。じゃあ行ってくるわね。ヨハネスをお願い。明日には帰るわ」


 リディアは外套を身に纏い、部屋を後にする。舞踏会までまだしばらく時間があるというのに、胸の高鳴りが止まらない。エドマンドはどんな舞踏会を用意してくれているのだろう。ホールの装飾は?ご馳走は?プロポーズはどんな言葉だろう?あれこれと妄想が止まらず、口元がゆるみそうになるのを必死に自制する。

 今日は人生最高の日になるだろう、リディアはそう確信していた。

 

 まさか今日こそが人生最悪の日になろうとは、この時のリディアには思いもしなかったのである。

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