運命の人
◇ ◇ ◇
人には誰しも運命の人がいる。
私は幼いころから母にそう言い聞かされてきた。
母は毎夜、王子様とお姫様の幸せなおとぎ話を私に読み聞かせた後、「運命の人に巡り合えたら、絶対にその人を手放してはダメ」としつこく言い聞かせていた。
ある日、あまりにも母親がいつもの調子で念を押すので、私が「お父様はお母様のうんめいの人ではないの?」と尋ねたら、母は押し黙って本の読み聞かせをやめてしまった。
その時の母の表情は忘れられない。
母は父と結婚したが、父は母にとっての運命の人ではなかったのだということは子供ながらにわかった。
これは後で知ったことだが、母は昔、隣国の貴族に恋をしていたらしい。
しかし大人しい気質の母は、彼と駆け落ちしようとするほどの勇気はなく、結局両親の勧めた今の父と見合いをして結婚することになったという。おそらく、その時の後悔が彼女の中にはいつまでも残っていたのだろう。
父は娘である私にとっては優しかったが、母にとって良い夫だったのかは正直わからない。父は母よりも下級の貴族の出だったが、財産だけはもっていたので、その財産と引き換えに、高い爵位を持つ母との結婚を望んだ男だった。プライドが高く、自らの地位を上げる事が彼の生きがいだった。
私を立派に育てる為、母はいつも父に叱られていたような気がする。実際、二人が笑顔で過ごしていた時の記憶は私にはほとんどない。
「運命の人はね、出会えばわかるのよ。まるで体に電気がはしったような感じがするから」
母はよくそんなことを言っていた。幼い私はそれを信じたし、自分の運命の人が現れたら、私は母と違って必ずその人と添い遂げるのだと心に強く誓った。どんな障害があろうと、私は消して諦めないし、必ずその人と結婚してみせる。
まだ冬の寒さが残る夜、デビューした社交界で出会ったエドマンド様は、まさに私にとって運命の人だった。
舞踏会で出会った彼は、私に優しく微笑みかけ、美しい金のロケットをくれた。
その時、私は体に電気が走ったように感じ、身体中の細胞が「この人だ!」と叫んでいた。
私自身は大した貴族の出身ではない。今は父が北方の土地から出る鉱石で事業を成功させたおかげで、貴族の中で最も財がある家だが、もともとノルデンドルフ家は北部の田舎貴族の一つに過ぎなかった。爵位も大したことはなく、王太子と結婚なんて夢のまた夢。
それでも私は必ずエドマンド様と結ばれるのだという確信があった。私たちは運命の糸で結ばれているのだと。そしてそれは何人の力をもってしても断ち切ることのできない強固なものであると。
しかし、その為には並大抵の努力ではダメだ。
北方の田舎貴族の娘などとは誰にも言わせない。
誰もが羨むような可愛らしく、賢い女性になり、エドマンド様の隣にいても遜色ない女性にならなければならない。
しかし、どんなに私が努力し、そしてエドマンド様が私を想ってくださっていても、現実は私たちの前に厳しく立ちはだかった。
私がエドマンド様に出会った時、彼にはすでに婚約者がいた。ノルデンドルフ家など歯牙にもかけない、辺境伯、ブライスガウ家の娘だった。エドマンド様の幼馴染で、容姿も才能も、全て持っている。しかし、人より優れていると言う点が仇となったのか、性格は随分とキツいようだった。自分より劣る者には容赦なく、見下す態度を取る事があり、私も何度か目にしている。
エドマンド様はよく、「彼女は僕には勿体無い」等と謙遜して仰っていたが、本音では、一緒にいると、疲れてしまうのだろうということがよくわかった。
これは試練なのだと、私は理解した。
私が運命のお相手、つまりエドマンド様と一緒になる為には、この障害を乗り越えなければならないのだ。
しかし、今となってはもうそんな必要はない。
やはり天は見ておられるようだ。私の努力の甲斐があったということなのだろうか。
エドマンド様はお優しいから、まだ喪に服されて悲しんでいるようだけど、時間がたてばきっと、本当の運命の相手は誰なのか、真実の愛はどのようなものなのか、気づいてくれるはずだ。
――あの女が死んでくれて、本当によかった。
◇ ◇ ◇
「お姉様!!お姉様!」
はしゃいだ声を上げながら、ヒルデガルドはカサンドラの部屋の扉を無遠慮に開けた。
カサンドラは窓際の二人がけのカウチに座り、静かにお茶を楽しんでいたところを邪魔され、少しムッとした表情だった。
しかしヒルデガルドはカサンドラの機嫌など関係ないとばかりに、その隣へと腰掛ける。
「私、エドマンド様とキスしてしまったわ」
ヒルデガルドは、口元を抑えながら、先程起きた事を恥ずかしそうに告白した。
カサンドラはその報告を聞いて驚き、思わず飲んでいた紅茶が変なところに入ってしまったのか、ゲホゲホと咽せる。
「あら、嫌だ。ごめんなさい。驚かせてしまった?」
「ゲホッ……あ、当たり前じゃない!あまりにも急な展開だもの!」
「急な展開?私とエドマンド様の関係を考えたら遅すぎるくらいよ。ふふ、私のファーストキスだったの。ファーストキスは甘いって聞いたけれど、本当だったのね。木苺みたいに甘酸っぱかったわ」
ヒルデガルドはカサンドラにしなだれかかり、ピンク色の髪がふわふわと揺らして、まるで子供のように楽しそうに笑っていた。
「お姉様のおかげよ。本当に、なんてお礼を言ったらいいのか。私じゃ、きっとここまでできなかったわ。持つべきものは、優しい姉よね」
ヒルデガルドはカサンドラの頬に軽く触れるようにキスをした。しかし、ニコニコと笑顔を浮かべるヒルデガルドとは対照的に、カサンドラは表情を曇らせている。
「どうしたの?」
「……やっぱり、少し強引だったんじゃないかと思って。さっき、フローレンシア様が乗り込んで来ていたでしょう?あまり賢くないあの方だって気づくくらいだもの。皆、ノルデンドルフ家の事を疑いだすわ」
不安なのか、カサンドラは無意識に自らの爪をガリガリと噛んでいた。
「やっぱり追放したすぐ後に殺すのは少し早かったかしら、でも――」
「お姉様」
ヒルデガルドはカサンドラの手を掴み、顔を自分の方へと向けさせた。所在なさげなカサンドラの視線を捕まえ、じっと見つめる。
「何を言ってるの、全てうまくいってる。他の貴族達が私達を疑おうとも、彼らに何も言わせなければ良いの。ブライスガウ家さえいなければ、貴族の中で最も力を持っているのは、間違いなくこのノルデンドルフ家よ。こちらの味方についていたほうが得だって事を他の貴族達に理解させれば、皆見て見ぬふりをしてくれるわ」
「でも、フローレンシア様が……」
「あの甘ったれのお嬢様が一人で何を言ったって、決定的な証拠がない限り何もできない。それに、誰も彼女の味方につく者なんかいないわ。現在、小議会で力を持つわがノルデンブルク家と政治的な力なんて何も持たない家柄だけのザルツブルク家、どう考えても向こうが不利だもの」
「……そうかしら」
「そうよ。それに、私とエドマンド様が結ばれれば、そんな細かい事にあれこれ口を出す人もいなくなるわ。あぁ本当に、長かった。これでやっと私とエドマンド様の間を邪魔する人がいなくなったわ!」
ヒルデガルドは嬉しそうにカサンドラを抱きしめた。カサンドラも、前向き思考の妹に当てられたのか、先ほどまでの暗い表情がずいぶんと明るくなっている。
「そう、そうよね」
「あ、でも」
突如、先ほどまで明るかったヒルデガルドの声がワントーン低くなった。心なしか、部屋の温度が少し下がった気がする。
「そもそも今回あの女を殺さないと行けなくなったのは、お姉様の詰めが甘かったからよ。舞踏会の時にあの女の国外追放が確実だったなら、あんな手段を取らなくてもよかったんだから」
「それは……」
「そこはきちんと反省していただきたいわ、お姉様」
ヒルデガルドの口は笑みを浮かべているようだったが、目は全く笑っていなかった。
冷たい光を宿して、カサンドラを冷たく見下ろしている。カサンドラはうっすらと冷や汗をかいていた。
「……ごめんなさい。次は貴女の手を煩わせないようにするから」
「もういいの!ごめんなさい。ちょっと厳しく言ってしまったわ。私の悪い癖ね。お姉様のおかげで私はこうして幸せに近づいてるんだから、本当は感謝してもし足りないのよ」
ヒルデガルドはカサンドラを強く抱きしめた。先ほどまで固まっていたカサンドラは少しホッとしたように体から無駄な力が抜けていた。
「……貴女が幸せになれるなら、なんだってするわ。私は貴女の姉だもの」
「ふふ、ありがとう。でも、お姉様も幸せにならなくちゃ。きっとお兄様も、お父様も喜んでくれるわ。こんなに頑張ったんですもの。お姉様の事を認めてくださるわよ」
「そうだと良いのだけれど。でも、今まで何をしても、庶子だからといって見向きもされなかったのよ。それがいきなり変わるものかしら」
カサンドラの言う通り、二人は姉妹であるが母親が異なる。つまり、異母姉妹だった。
カサンドラはノンデンドルフ卿が戯れに手を出したメイドの子だった。幼い頃は母と二人きりで住んでいたが、母親が病気になり、育てることができなくなって、カサンドラはノルデンドルフ卿、つまり実の父親のところへと連れてこられた。ノルデンドルフ卿はカサンドラを引き取る義理などないと突っぱねたが、無駄なスキャンダルが発覚する事を恐れて、最終的にはカサンドラを引き取る事となったのだ。
今までの暮らしぶりと打って変わり、ノルデンドルフ家に迎え入れられてから、カサンドラは貴族の令嬢としてきちんとした教育を受けた。着るものや食べ物に困る事はないし、毎日美しいドレスを身につけ、殿方を落とす方法も教わった。
しかし、どんなに素晴らしい生活をおくっても、父親からの愛情を得ることはできなかった。兄はカサンドラにほとんど興味を示さない。そんなカサンドラに懐いてくれたのは唯一、ヒルデガルドだけだ。
だからこそカサンドラはヒルデガルドの為になんでもしてやりたかった。そうすれば自分自身を家族に認めてもらえるかもしれないという打算的なものもあったとはいえ、妹への愛情があるのは本当だ。
「お姉様は私の為に頑張ってくれたじゃない。お父様の願いはノルデンドルフ家をより栄えさせる事。私に協力して、私が王太子妃になれば、それは間違いなくこの家のためになる。お父様はお姉様にちゃんと価値を見出すと思うわ」
「価値……ね。なんだか貴女に丸め込まれているような気もするけど、まぁいいわ。きっとこれが今は最善なのだろうし」
「丸め込むなんて。私はお姉様が大好きだから、お姉様がうまくいきますようにって応援しているだけなのに」
頬を膨らませ、拗ねたようにヒルデガルドは言った。
しかしすぐにくるりと表情を変え、ヒルデガルドは目をキラキラと輝かせ始める。
「ところでね、次の計画なのだけど」
ヒルデガルドのあまりの切り替えの早さに、カサンドラは思わず苦笑する。妹というものは甘え上手でこうも自己中なものなのだろうか。しかし、そんなところに姉は翻弄されるしかないし、そんな所を愛しているところもあるのだけど。
「舞踏会を開こうと思うの。少しでも、エドマンド様の気が晴れるようにと思って」
「舞踏会?」
「えぇ。でもさすがに元婚約者の喪に服されてる手前、公にご招待はできないでしょう?だから、仮面舞踏会をノルデンドルフ家主催で開くの。たくさんの貴族の方をお招きして、我が家の力を見せつけるわ。貴族の方達と直接お話するちょうどいい機会にもなるだろうし」
つまりは、社交界における貴族達を囲い込んでおこうということだろう。舞踏会というものはただダンスを踊り、おしゃべりを楽しむだけのものではない。その裏では貴族達のパワーバランスを見定め、調整が行われる場所でもあるのだ。
「いいんじゃないかしら。お父様に早速申し上げてみるわ」
「ありがとう、お姉様」
ヒルデガルドはカサンドラに礼を言うと、今にも歌を口ずさみそうなほどの軽い足取りで部屋から出ていった。
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