深窓の令嬢

「あー、飽きた、飽きた!もうクッキーもレモネードも食い飽きた!」


 クルトがイライラしながら叫ぶと、廊下ですれ違った貴族達がギョッとしたようにこちらを見ていた。そういえば今日はお行儀よくしていなければいけなかったのだと思い出したが、もうずっといい子のフリをしていたせいで、精神的にも肉体的にも疲弊している。取り繕う事すらめんどくさかった。


 先ほどまで食べていたクッキーの甘ったるい味がまだ口の中に残っている。リフレッシュする為に水が欲しかったが、先ほどからドリンクのサーブをしている使用人達がもっているのはシャンパンかレモネードのみだった。

 とりあえず厨房かどこかに行けば水くらいは貰えるだろうとホールを出てみたはいいものの、屋敷は予想よりも広く、クルトはすっかり迷ってしまっていた。


 (やばいなこれ……早く戻らないとあいつ絶対めちゃくちゃ怒るぞ……)


 今日はお行儀よくしていること、と馬車の中で言いつけたリリアの言葉を思い出した。激怒するリディアを想像して焦燥感が募り、なんとなく早足になる。しかし歩けば歩くほど、廊下にいる人々の姿は少なくなり、気づけば誰もいない通路へと来てしまっていた。先ほどのホールの音楽ももう聞こえてこない。


 (ここどこだよ……大体、家の中で迷うってそんなのありなのか?)


 廊下は薄暗く、窓から差した月明かりでなんとか先が見えた。飾り付けている様子がないので、もしかしたらこちらの方はただの居住空間なのかもしれない。

 

「殿下のご様子は?」

 

 曲がり角の向こうから、いきなり人の声が聞こえてきたので、クルトは思わず驚きのあまり声をあげそうになった。慌てて、すぐ近くにあった扉を開け、部屋の中へとするりと入り込む。別に悪事を働いているわけではないのだが、つい隠れてしまった。

 

「今はまだ少し混乱なさっているみたい。まだあまり元気はないようですけれど、心配いりませんわ」

「しかし、随分遅いじゃないか。俺はてっきり、殿下はすぐにでもお前にプロポーズをするとばかり思っていたのに。ブライスガウの娘との婚約なんか所詮体裁のため、とお前は言うが、彼女が死んで殿下はずいぶん憔悴しているようじゃないか」

「エドマンド様はお兄様と違ってお優しいのよ。だからあんな女でも死んだら悲しいものなの」

 

 ドア越しに聞き耳をたててみる。高い女の声と、少し低めの男の声だ。お兄様ということはこの二人は兄妹なのだろうか。

 聞こえてきた名前に聞き覚えがあった。エドマンドといえば、確かリディアの元婚約者で、この国の王子の名前だったはずだ。

 

「婚約者だった手前、喪に服されているだけ。きっと喪が明けたらすぐに私にプロポーズしてくださるはずだわ」

「そうか。ならいいんだが。てっきり俺はお前が早合点しているのではないかと――」

「お兄様」


 明らかに女の声が不機嫌になったのがわかった。

 

「私とエドマンド様の愛を疑ってるの?!そういう事言うの、本当に嫌い!」

「悪かった、悪かったよ、ヒルデガルド。今のは俺が悪かった」


 金切り声で叫ぶ女を男が宥めている。

 二人の声は扉の向こうからどんどん遠ざかっていった。

 どうやらもう行ってしまったらしい。クルトは安堵のため息をついた。


「ねぇ、貴方そこで何してるの?」

「うわぁ?!」


 突如かけられた声にクルトは飛び上がった。

 暗闇の中、目を凝らすと、なんと部屋の窓際のベッドの上に人影が見えた。どうやらこの部屋には人がいたらしい。しかし、部屋が暗かったし、物音もしなかったので全く気づかなかった。


 カーテンが開かれ、月明かりが真っ暗な部屋の中をほんのりと照らし出す。


 ベッドの上にいたのは一人の少女だった。


 栗色の長い髪を垂らし、深い海のような青い目がクルトを見つめている。おそらく歳はクルトとそう変わらないだろう。

 舞踏会の為の華やかなドレスではなく、白いフリルがあしらわれたネグリジェを着ていた。華奢な手首が袖のところからのぞいている。

 様子を見るからに、どうやらこの少女が眠っていた部屋にクルトがうっかり入り込んでしまったらしい。


「ち、違うんだ!ちょっと迷って……。悪かった!人がいるなんて思わなかったから……」

「貴方、もしかしてお外から来た人なの?」


 クルトがどう言い訳をしようか迷っているうちに、少女はベッドから下りて、クルトのすぐそばまで近づいてきていた。

 青い瞳が好奇心に輝いている。


「そ、外?」

「えぇ、このお屋敷の外の人。私、このお屋敷から出たことがなくて……実は使用人やお姉様達以外と話すのって初めてなの」

 

 おっとりとした口調で少女は言った。全く見知らぬ男が部屋に入ってきたというのに、少女は特に怯えるわけでもなく、興味津々といったようすでクルトの様子をじっくりと観察している。


「俺、舞踏会で来たんだけど、この屋敷広くて……ちょっと迷っちまったんだ」

「舞踏会……やっぱり、今日はパーティーがあったのね?」


 どうやらこの少女はこの家で舞踏会が開催されていたのを知らなかったらしい。この家の人間であるはずなのに、なんともおかしな話だ。


「そうだけど。オマエはなんで舞踏会には出ずにこんなところにいるんだ?この家の娘なんだろ?」


 クルトが尋ねると、少女は一瞬表情を曇らせたが、すぐに柔らかい笑顔へと戻った。


「私は……体があまり丈夫ではないから、パーティーには出られないの」

「それって、つまり病気ってことなのか?」

「うーん、病気とは少し違くて……元気なんだけど、たくさん動いたり、おしゃべりしたりするとすごく疲れちゃって、たおれちゃったりするのね。そうすると、みんなに迷惑をかけちゃうから、お留守番なの」

 

眉根を下げ、「仕方ない」と少女は笑う。


「なんで?別に、自分の家なんだし、少しくらい迷惑かけたっていいだろ?みんな楽しそうにパーティーしてるのに、オマエだけ参加できないなんて不公平じゃん」


 クルトの言葉に少女は目を丸くした。考えたことがなかった、というような表情だった。


「でも、お姉様方に迷惑はかけられないもの」

「ふーん……。まぁ、オマエ、良い子そうだもんなぁ」

「そんなことない。私、全然良い子じゃないよ。いつも、お姉様達に叱られるし、お兄様には迷惑かけっぱなし」

「兄貴もいるんだ?」

「うん!お兄様はね、とっても素敵なの。ハンサムだし、なによりとっても優しいのよ」


兄の話題になった途端、少女の表情はわかりやすく変化した。どうやら兄の事を心の底から慕っているらしい。

 

「あなた、名前はなんていうの?」


 少女がクルトに尋ねた。


「……クルト」

「私はクロエ、よろしくね」


 クロエはにっこりと笑い、クルトに向かって手を差し出した。

 透けるように白く、ほっそりとした手だ。

 一瞬手を握るのに躊躇してしまうほどに。


「……よろしく」


 クルトが手を握って握手をすると、クロエは少しだけ驚いた顔をして、それからふふと笑った。


「なんだよ」

「ううん、なんでも。ねぇ、クルトも舞踏会は初めて?どんな感じなの?ワルツを踊ったり、食べきれないほどのケーキやクッキーがあるっていうのは本当?」

「ワルツ……、あぁ、確かに皆なんか踊ってたな。確かに菓子はいっぱいあるけど、でも、甘いものばっかですぐ飽きちまった」

「へぇ……そうなんだ。いいなぁ、私も飽きるくらいにお菓子を食べてみたいなぁ」

「そんなに言うなら……飽きるほどはないけど、これ、やるよ」


 クルトはポケットから小さな包みを取り出し、クロエに手渡した。クロエが包みをあけると、その中には数枚、クッキーが入っている。先ほどの舞踏会で置かれていたものを、クルトがハンカチに包んで持って帰ろうとしていたものだ。

 クロエは大きな目を丸くすると、クスクスと笑った。


「な、なんだよ!」

「ううん、ありがとう。大切に食べるね」


 クロエはまるで高価な宝物が入っているみたいに包みを扱う。その仕草が実に優雅で、クルトは感心してしまった。年齢はほとんど変わらないだろうに、生まれた環境が違えばこうも違うのかと驚く。しかし、いつもの横柄で傲慢な貴族を目のあたりした時の不愉快な気持ちではなく、純粋な驚きだった。


「おっと、そろそろ行かなきゃ。なぁ、ここからホールに戻るにはどうしたらいいんだ?」


 気づけば割と長居をしてしまった事に気がついた。早く戻らないと、リディア達が心配するだろう。


「ホールなら、この奥の廊下を曲がったところよ。でも、もう行ってしまうの?」

「あぁ、戻らないと、仲間が心配するし」

「そう……残念」

「なんでだよ」

「だって、せっかくお友達になれたかと思ったのに」


 クロエは眉根を下げ、寂しそうに呟いた。

 女の子にこういう顔をされるのは苦手だ。どうしたらいいのか、わからなくなる。


「また会えばいいじゃんか」

「また?」

「こうやってまた、遊びにくるから。別に今日で会えなくなるわけじゃねぇんだし」

「本当?また会ってくれるの?」

「オマエさえいいんなら、俺は別に……暇だし」


 先ほどまでどんよりとした表情だったクロエは、輝かんばかりの笑顔で微笑んでいる。


「絶対よ、約束だからね。私、この部屋で待ってるから」


 クロエに小さく手を振り、クルト再び廊下へと戻った。言われた通りに廊下を進んでいくと、先ほどあれだけ迷っていたのが信じられないくらいに、すんなりとホールへ戻る事ができた。

 豪華なシャンデリアの下で踊る人々、美しく奏でられる音楽に美味しいお菓子。素晴らしい空間のはずなのに、先程までクロエがいた静かな部屋に早速戻りたくなっている自分がいて、クルトは苦笑した。


 周りをぐるっと見渡す。

 リディアとテオドアの姿は見つけられない。

 もしや置いて行かれてしまったのだろうかと嫌な考えが頭をもたげた。


 (なんだよ、俺を連れてきたのアイツらだろ)


 慣れない場所にひとりぼっちにされたという不安感から、なんだか気持ちがイライラとしてくる。こんなことなら、さっきのクロエの部屋にもう少しいれば良かったとすら思う。


 (まぁいいや、アイツらが帰ってさえいなければ、入り口の方にいれば会えるだろ)


 勢いよく立ち上がり、入り口へ足早に向かおうとした時だった。


「うわっ」


 ドン、と勢いよく目の前の男性にぶつかった瞬間、なにか冷たい液体がクルトの服を濡らした。

 甘いレモンの香りがする。どうやら目の前の男の持っていたレモネードが、ぶつかった衝撃で、クルトとその男自身にかかってしまったようだった。


「すまない。怪我はないか?」


 思わず尻もちをついてしまったクルトにすっと手が差し伸べられる。男は背が高く、声音は優しかった。

 自分にも飲み物がかかってしまったというのに、子供のクルトを心配するのだから、きっと良い人なのだろう。しかし、今のクルトにはそれが酷く癪に触ったのだった。

 

「どこ見てんだよ、おっさん」

「おっ……」


 男はまさかそんな言葉を投げかけられると思っていなかったのだろう。驚きに目を丸くしている。


「ちょっと!貴方、その言い方はないんじゃなくて?!」


 男の隣に立っていた女がクルトに声をかけた。目元には仮面をつけ、フリルとレースがたっぷりとあしらわれたレモンカラーのドレスを身に纏っている。腰元に手を当て、クルトの態度に怒っている様子だった。


「なんだよ、アンタには関係ないだろ」

「まぁ!一体どこの家の子かしら?!親御さんはどこ?」

「お嬢様、もういいじゃありませんか。彼はまだ子供ですから」

「何を言っているのディードリヒ、貴方は甘すぎる。子供だからって、今の態度が許されていいわけがないでしょう?」


 宥めようとする男を振り払い、女はクルトに詰め寄った。

 もちろん自分の態度が良くなかったのはわかっているのだが、もうここまで来ると引っ込みがつかない。反論しようと、クルトが口を開いた時だった。


「クルト!」


 後ろからクルトを呼ぶ声がする。

 振り返ると、そこにはリディアとテオドアが立っていた。思わずホッとして、二人に駆け寄る。


「お前ら、どこ行ってたんだよ!お前らがいないせいで俺は――」

「……フローレンシア?」



 リディアが掠れた声で小さく呟く。

 顔を上げると、フローレンシアは目を見開き、酷く驚いている様子だった。

 

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