ラケット
iPadの電源を消し、ひとつ、ため息を吐く。
ひさびさの休日。部屋の中でダラダラするのにも飽きてしまった。
——そうだ、久しぶりに運動でもしよう
ぐーっと伸びをして、何をしようかと部屋の中を歩き回る。
ふと、足が止まる。
目に入ったのはテニスラケットだった。
あの頃からずっと、そこに立てかけられたままの。
「わあ……すっごーい!」
僕のiPadを自分のもののように操作していた君が、突然、拍手をした。
「何見てるの?」
「これ!」
画面に映っていたのは、ネット越しにボールを打ち合うプロテニスプレーヤーたち。
「確かにすごいラリーだな」
「でしょ? ほら、今のマジやばい!」
わあきゃあと黄色い声をあげ、激しい攻防に見入る君。
「私たちもやろう!」
好奇心旺盛な君は、飛びつくように提案した。
対して僕は。
「言うと思った……。テニスラケットの値段、知ってる?」
「えー、知らない」
「1万5千くらいはざらだよ」
そんな風に淡々と告げたけれど、それでも君の意欲の炎は消えない。
「メルカリで安いの買おう!」
言うや否や、さっそくスマホ片手にネットショッピングを始めた。
「私もあの人たちみたいにすごい球打ちたい!」
そう言ってはしゃぐ君は、まるで少年みたいで。
僕はため息をつきながらも、そんな君を見て心が温かくなるのを感じていた。
そして数日後。
「というわけでやってきましたテニスコート!」
僕らは準備を整え、最寄りの庭球場にやってきた。
「よっしゃ打つぞーッ」
君がさっそくテニスラケットをにぎりしめ、コートに入ろうとしたので、僕は。
「ん、もう打つの?」
「え、うん」
「着替えないの?」
「いいじゃん私服で」
僕は内心で舌打ちした。
秘かに君のスコート姿を楽しみにしていたから。
「ちょっとー。私に打ち負けそうだからって萎えないでよー」
「いや、流石に君には負けないよ」
「言ったなー?」
君は僕の言葉に奮起し、駆け出して対面のコートに立つ。
そしてラケットを担ぎ上げると、ボールを天高く放った。
「くらえ、ツイストサーブ!」
君は特撮もののヒーローみたいに技の名前を叫んだが、とんできたのは声だけだった。
空を切ったラケット。こてん、と君の頭におっこちる、ボール。
「あれ?」
「あっはっはっは!!」
ギャグ漫画みたいな光景に、僕は笑い転げてしまった。
「くぅー。テニプリとマリオテニスで予習してきたのになあ」
「せめてベイビーステップにしときなよ。あれは参考になるよ。ほら、まずは簡単なラリーからやってみよう」
それから僕らは短い距離から打ち合いを始めて、ちょっとずつラリーが続くようになった。
かと思えば。
「あー、場外!」
君は何度かボールをフェンスの外までふっとばした。
そのたびに二人でボールを探し回って大変だった。けれど。
「あっはは、楽しい!」
「……そうだね」
君はそれでも、心から楽しそうにラケットを振っていたから。
僕は君とのおぼつかないラリーを、ずっと続けていたいとすら思ったんだ。
そんなことを思い出しながら、最寄りのテニスコートに足を運ぶ。
珍しくがら空きで、寂しいくらいだった。
誰かと一緒に来ていたのなら、日陰に近い場所を抑えられてラッキー! と喜びでもしたのかもしれないけれど。
あいにく、もうそんな風に笑ってくれる相手もいない。
僕はいたたまれなくなり、無人の壁打ち場で一人、ラリーする。
壁から返ってくるボールは、いつまでも精確に僕の方に戻ってきて。
一定のテンポでラケットから放たれる打球音が、ただただ、味気なく壁打ち場に響くだけだった。
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