ピローミスト

 ——眠れない


 ため息をついて寝床から起き上がり、頭をかく。

 昼間飲んだコーヒーが、今さらになって効いてきたらしい。


 こういう時に気合で眠ろうとしても逆効果だ。

 僕は久しぶりに、入眠アイテムを試すことにした。


 耳栓にアイマスク、それから、ラベンダーの香りがするピローミスト。

 どれも君に教えてもらったものだった。


「……」


 感傷に浸りそうになる前に、僕はピローミストを枕に吹き付け、耳栓とアイマスクを装着する。


 ラベンダーの香りが記憶を呼び覚まして。

 暗闇と沈黙の中に、君との日々が再生されていく。







 あの頃、眠れずにいた僕は、安眠を求めて寝具屋さんに足を運んだ。


 ——何か効果的なものはないだろうか


 うむむとうなりながら店内を歩いていると、


「何かお悩みですか?」


 となりから心地良く鼓膜をゆらす声が聞こえてきた。


「枕やベッドなら、試しにお使いいただくこともできますよ」


「そうなんですか。実は不眠に悩まされていて――」


 僕は自然と、悩みを打ち明けていた。


「大変ですね。当店では枕やお布団だけでなく、ピローミストやアイマスク等も取り揃えております」


「へえ、色々扱っているんですね」


「はい。よろしければ、ご案内させていただきますが……」


 店員さんはふわりと素敵な香りをただよわせ、穏やかな声音で僕を誘った。

 天使の存在なんて信じないけれど、もし実在したのなら、こんな感じなのだろう。

 そう思わされるような笑顔だった。


「では、ぜひよろしくお願いします」


「承知しました。では、こちらへ――」


 僕の前へ歩き出した店員さんを、思わず「あの」と引き止める。


「いかがなさいましたか?」


 店員さんは慈愛に満ちた表情で振り向く。


「えっと、ASMRみたいな声ですね。それと、ラベンダーのいい匂いがする」


 僕は気付けば、そんな言葉を口にしていた。

 店員さんはぽかんとした表情を浮かべてから、笑みのこぼれる口元を上品に押さえて言った。


「ふふっ、ASMRって。そんなたとえする人、初めて……」


 どこかツボに入ったようで、破顔しそうになるのを必死でこらえているように見えた。

 それが君との出会いだった。




 寝具屋さんでの一件をきっかけに、僕らは仲良くなり、やがてカップルになった。

 交際中、君は僕に沢山の安眠グッズを教えてくれた。


「さいきん、どう?」


「おかげでさまで」


 付き合い始めてしばらく。

 僕の睡眠はずいぶんと改善された。


「それは良かった。彼氏が不眠症だったら、寝具屋さんの名折れだからね」


「それはそう」


 そんな会話を交わして、二人して笑い合う。

 ゆったりとした寝室でのひととき。

 君が枕に吹きかけた、ピローミストの香りがやさしく漂っている。


「……ねえ、頼みがあるんだけど、いいかい?」


「うん」


 僕は少しだけ間をおいて、君に伝えることにした。


「ひざ枕をしてくれないか?」


「あら。そんなのお安い御用だよ」


 君はそう言って、ひざをぽんぽんと叩いた。

 ゆっくりと君の太ももに頭をのせる。


「寝心地はいかがですか?」


 君は女神のようなほほえみを浮かべながら、僕の頭を優しく撫でた。


「……最高です」


 それ以外に無かった。けれど。


「……もうひとつ、いい?」


「ふふ。なんでしょう?」


「……子守唄を、うたって欲しい」


「いいよ」


 君はASMRのような優しい声音で、「ねーむれー、ねーむれー」とうたってくれた。

 物心つく前に母を亡くしたため、味わうことのできなかったぬくもりと慈愛。

 空虚な心の穴を満たされる感覚に、気付けば頬に涙が伝っていた。


「……がんばったね」


「……うん」


 すべてを癒すような君の魔法で、僕は泥のように眠った。

 地上の楽園と呼んでも差し支えない程の、至福の時間だった。







 あの時と同じように、僕は泣いていた。

 涙はアイマスクをぐっしょりと濡らし、もはや用をなさない。


 もし、無理にでも君と一緒に居る道を選んでいたのなら。

 今も僕は、君の膝の上で安らかな眠りにありつけていたのだろうか。

 そんな後悔がとめどなくあふれていく。


 君の虚像が脳裏に浮かび、子守唄の幻聴が聞こえているのに。

 すこやかな眠りからは遠ざかっていく。


 ピローミストで吹きかけた君の残り香に、僕はゆっくりと、実にゆっくりと、蝕まれていった。

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