ヘアピン
窓際のイートインスペースで一人、テイクアウトしたコーヒーをすすっている。
ふと、ガラスに映る自分の顔が目に入る。
伸びてきた前髪が、いい加減うっとおしい。
けれど、床屋に行くのもめんどくさい。
予約してすぐに行けるとも限らないだろう。
——そういえば
こんな時に役立ちそうなものを持っていた、と、メッセンジャーバッグの中を漁る。
数十秒の捜索を経て、目当てのものは見つかった。
サイドポケットに入っていたそれは、髪留め用のヘアピンである。
昔、君にも同じものをあげたっけ。
「前髪、伸びてきたなー……」
僕の部屋にて。ソファでくつろぐ君が、前髪をいじる。
「切らないのか?」
「簡単に言うね、人の気も知らないで」
僕が問うと、すました顔のまま、すねたような物言いが返ってくる。
「……ごめん。分かってるよ」
主語の無い僕の発言に、「何を?」と、すまし顔のままの君。
「キレイな髪だ」
問いかけに答えないまま、僕は君を後ろから抱きしめ、艶やかな黒髪でおおわれた、君のうなじに顔をうずめる。
君は「ふふ」と微笑をもらし、僕の顔を引き寄せ、口づけた。
僕はためらいもなくお礼を言う。
「ありがとう。僕の好みに合わせてくれて」
「別に。私が好きでやってるだけだから」
――長い黒髪が好き
僕が昔、語ったことを君はずっと覚えていて。
付き合ってからはずっと同じような髪形をしているのだった。
「でも、無理することないんだよ?」
「だから、私が好きでやってることなの!」
君は愛らしくぷくっと頬をふくらませた。
「それとも、短くしてほしいわけ?」
「そうは言ってないだろ。でもさ、」
僕は君の前髪をかき分けて言った。
「かわいい顔がはっきり見えないのは困るかな」
何の気恥ずかしさも覚えずに言った。
今では思い出すだけで死にたくなるようなセリフだ。
「キザ」
「まあね」
「黒髪ロングヘアフェチの、変態」
「それは……まあ、それもそうだね」
言うやいなや僕は、君の頭をぽんと撫で、少し席を外した。
すぐに君の元に戻り、それを差し出す。
「ヘアピンじゃん」
君は驚いた。
——なぜ持っているの
刺すような視線が僕を射抜いた。
「誤解しないでくれ。もともと自分のものだ」
僕は弁解したが、それでも君は疑いの目をやめない。
「この長さでヘアピンは要らなくない?」
君は僕の髪に触れながら言った。
君の指先が触れる僕の髪の先端から、冷ややかな感覚が身体に走った。
――本気で弁解しないとヤバい
そんな危機感から、僕は仕方なくスマホを取り出した。
「これ、昔の僕」
「えっ」
君は大きく目を見開いた。
「いや、誰よこれ」
君が見つめた僕のスマホには、金髪ロングヘア―でヘアピンをつけているチャラ男が映っていた。
「だから、僕だよ。だいぶ昔の頃だけど」
「ちゃっら。マジかよ……」
吐き気でも催したのか、君は両手で口元を抑えていた。
無理もない。黒歴史過ぎて、当人の僕でさえ吐きそうになる。
「このころに会ってたら付き合ってないかも」
「そりゃあそうかもな」
「なんかさ、女遊びしてそうだよね」
「……どうだったかな」
肯定も否定もなく、回答をにごす。
すると君は、僕のくちびるに吸い付くように再びキスをした。
「どうしたの?」
数秒後、くちびるを離して問いかけても君からの返答はない。
その表情は長い黒髪に隠れている。
僕はそっと、ヘアピンで君の前髪を留めた。
「どうして怒ってるの?」
あらわになった君の顔を見て僕が言う。
「他の女の影を感じたので」
「嫉妬? かわいい」
「不安にさせるような男の人はきらいです」
君はそう言って熱っぽい視線を向けてきて、僕はたまらなくなった。
思わずキスをしていた。
「……今は君だけだよ」
そう言って、何度もキスした。
それからくちびるだけじゃ足りなくなって、ほっぺたにも、首筋にもキスをした。
「ヘアピン、外しとく?」
君がかすかな吐息とともに、僕の耳元でささやいた。
「そのままにしてて。君の顔をよく見たいから」
「……うん」
僕は君への想いを証明するように、何度も抱きしめた。
冷めたコーヒーをすすりながら、ヘアピンを見つめる。
――さすがにこの年で付けるのはなあ
そう考えなおして、しぶしぶ美容院の予約をしようとスマホを取り出す。
行きつけの店に電話するために、電話帳の電話番号を押す。
コール音が鳴る間、窓の外に視線をさまよわせていると。
「あ」
手元のものと同じヘアピンを前髪に差した女性が横切った。
僕は急いで椅子から立ち上がり、駆け出していた。
「あ、あの」
気づいたら声をかけていて。
「?」
けれど、振り向いた顔に心当たりはなくって。
「……すみません、人違いでした」
ぺこりと頭を下げると、相手も軽く会釈をして歩き去って行った。
——いつからこんなに女々しくなってしまったのだろうか
手元のスマホから聞こえてくる美容師さんの声にはっとさせられるまで、僕は呆然と、雑踏の中で立ちすくんでいたのだった。
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