イヤホン ※少し長め

 数年ぶりに窓を開けると、心地よい春風が入り込んできた。


 季節は春。別れと、始まりの季節。何年も住んだこの部屋とも、もうすぐお別れだ。お別れの前にやるべきことがある。言うまでもない。大掃除と引っ越しの準備だ。


 忙しさにかまけていたせいで、この部屋はあの頃のまま。ほこりをかぶらせてしまった家具たちに、申し訳なさを覚えながらもキレイに磨いていく。


 ふと、適当にものを投げ入れた『何でも箱』が視界に入る。そういえばこれも、あの頃からずっとそのままにしてしまっていたな。


 一体何を入れたのだろうと覗こうとして、手が止まる。脳裏をよぎったのは、小さい頃の記憶だ。片付けの際におもちゃ箱を漁っていて、気付いたら夕方になっていたことを思い出したのだ。


 まあでも、少しくらい思い出に浸ってもばちは当たらないだろう。


 そう考えて何でも箱を漁ると、僕のものではない、コード付きのイヤホンが現れた。






「ねえ、この曲よくない?」


 まだ、僕らが付き合い始めて間もない頃。音楽が好きな君は、ことあるごとに片方のイヤホンを差し出して、僕の耳につっこんだ。


「――そうだね、良いと思う」


 僕がそういうと、君はにぱあっと顔を明るくして、「でしょう?」と喜んだ。まるで数年来の友だちに再会した時のように。


「いやあ、やっぱいいんだよなあ」


 あかるい曲、しんみりした曲、ヒップホップ、バラード、エトセトラ、エトセトラ。

 イヤホンから流れてくる曲がどんな曲であっても、音楽に心をゆだねる君の横顔は、とても充実して見えた。


「君って、本当に音楽が好きなんだな」


「あはっ。嫌いな人とかいる?」


 まるでこの世界の真理を突きつけるようにして、君は言ったよね。

 あやふやで、あいまいな僕には真似のできない、自信たっぷりな笑顔で。


「――まあ、いないかもな」


 だからこそ僕は、君のことが好きだった。

 自分には無いその感性に、哲学に、支えられて生きているようですらあった。


「でしょ。ほら、次はこの曲を聞いてみて」


 僕らの毎日は音楽に彩られていて。


「あ、これこないだ聞いたやつだ」


 気付いたら僕も、たくさんの音楽を知るようになった。


「ふふ。私色に染まってきたかな?」


「まあ、ね」


「あはは」


 そうやって僕らの季節は過ぎ去っていって。




 気付けば、同じ部屋に住むようになっていた。


「いやー、春ですなー」


「そうだね」


 そんな会話を交わす時にも、僕らはイヤホンで繋がっていた。


「この曲、最近よく聞いてるよな」


 君がひときわよく聞いていた曲がある。別れを題材にした楽曲だ。


「この季節になると聞きたくなるんだよねえ。いい曲でしょ?」


「――そうだね、良いと思う」


 僕がそういうと、君はにぱあっと顔を明るく……せずに、真顔で僕の方を見つめてきた。


「思ってないでしょ?」


 僕はぎくりと肩をおどろかせ、「え」と漏らして唖然とした。


「ふふふ。何年も付き合ってるとね、ちょっとした仕草の違いで分かるんだよ」


 そう言って君は僕に詰め寄った。

 僕はたじろいだけれど、君のコード付きのイヤホンが、距離をとることを許さない。


「そんなものなのか」


「そういうものだよ。でもね、別に私は、あなたに私と同じ好みで居て欲しいって、言っているわけじゃないの」


 君は少しだけ、寂しそうに前に向きなおった。ベランダの向こうで、満開の桜が花びらを散らしている。


「この曲のこと、どう思う?」


 目線を合わせないままで君が問う。


「僕は正直、頻繁に聞こうとは思わないかな」


「――どうして?」


「だって、別れを想像してしまうから」


 僕は本音を伝えながら、君のいない日々のことを思う。君と別れ、一人で生きていく。そんな日々のことを。


「そっか。さびしがりやさんだね」


 君は僕の言葉を聞いて、まるで年端のいかない幼児を見るような、優しいまなざしで微笑んだ。

 対して、僕は少しむっとした。


「そういう君は、どうしてこの曲が好きなの?」


「そうだね……この曲を聞くと、別れていてもその人のことを思い出せる気がして、良いと思うの」


 そう語ってベランダの向こうを見る彼女の目線は、僕よりずっと遠くの空を見ている気がして。手が届かなくなるような、そんな気持ちにさせられてしまった。


「……どうしたの?」


 気付いたら僕は、君のことを後ろから抱きしめていた。


「その時が来たとしたら、思い出すのは僕であってほしい」


「ふふ……じゃあ、忘れられないようにして?」


 そうして僕は、子どものように君を求めた。




 季節は巡り、就活が始まる。


 大学生だった僕らは、内定を取ろうと必死に駆け回っていた。

 企業研究、エントリーシートの書き方、面接指導――

 これまでの生活のことなんて、頭からすっぽ抜けるほどの多忙さだった。


 ——ねえ!


 君の声が後ろから響いてくる。僕が振り向くと、すがるような表情の君がいた。


「なに?」


「……やっと振り向いてくれた」


 君は僕の耳を指さして言う。


「イヤホン、買ったんだね」


「あ、ああ……」


 耳にしていたそれを外しながら答える。

 最近よく目にするようになった、ワイヤレスイヤホン。コード無しで使用できるイヤホンだ。


「たまにはゆっくりしない?」


 君はそういうと、いまだに愛用しているコード付きのイヤホンの、片方を差し出してきた。


「そう、だね」


 僕は息を抜いて、君と並んでベランダ前の床に座る。

 しばらくすると、ゆったりとした音楽がイヤホンから流れてきた。


「音楽聞くの、久しぶりだ」


 最近は、就活にかかわる音声講座やニュースばかりを聞いていた。音楽を聞く心の余裕なんてこれっぽっちも無かった。


「そうだよね。忙しそうだったから、そうなんじゃないかって思った」


「ありがとう。気をつかってくれた?」


 僕が問うと、照れくさそうに曖昧な笑顔で「えへへ」と笑う君。


「音楽でさ、助けられないかなって思ったんだよね」


 自分が好きなもので誰かを助けたい。日頃から君は、そう漏らしていた。

 そのことは君の将来設計にも影響を与えていた。


「……留学、したら?」


 僕の言葉に、君は、はっと目を見開いた。


「……気付いてたの?」


「ああ」


 僕には内緒で、留学に関しての資料を調べていたこと。たくさんの勉強をしていたこと。

 隠しようのない形跡や、思いつめたような表情から、僕はそれを悟っていた。


「こんなこと言うのもおこがましいけどさ、僕、君がいなくても生きていけるよ?」


 本当は君がいない日々を生き抜く自信なんてなかった。それでも、大好きな人の足かせになんてなりたくなくって、精一杯、強がって見せた。


「君はこんなところでくすぶっていていい人間じゃないよ」


 僕は君の目をまっすぐに見つめて言った。いつもここぞというときに、はっきりとものを言う君を真似して。


「行くんだ。夢を追いかけるんだ」


「うぅ……」


 君は僕の胸に顔を沈め、むせび泣いた。


「あなたのくせに、生意気」


「ああ。そうだね……」


 大人になんてなりきれなくって。

 せいぜいが小生意気ながきんちょだったから。

 僕も君の涙で胸を濡らしながら、こらえきれずにひそひそと泣いてしまった。




 季節はまた巡って、僕らにも別れの季節がやってくる。

 空港の待合室で椅子に並ぶ僕らは、コード付きのイヤホンを片方ずつ耳につけ、音楽を聞いている。


 流れているのは、君が好きな別れの曲だった。


「……」


 二人の間にはそれ以外に無くって。

 ただ、手をつないで座っていた。


 秒針は淡々と進み、その時を告げる。


「お別れだね」


「ああ」


 どちらからともなくイヤホンを外し、立ち上がって、歩き出す。


「じゃあ、ここで、かな」


「……うん」


 荷物を持った君が、搭乗口に向かっていく。

 僕たちはここで、別々の道を進むことになる。


「今までありがとう」


「私こそ、ありがとう」


 最後に抱擁を交わす。涙ぐむ君を見ても、僕は泣かなかった。


「大人になったね」


「はは。子どもに戻りたいよ」


「じゃあ、はい」


 そう言って君は、ハグを解いて僕の頭をポンポンと撫でた。


「やめろよ。泣いちゃうだろ?」


「あはは! そうだね……じゃあ、バイバイ」


 君はそう言って僕に背を向けると、足早に歩き始めた。


「――!」


 慌てて僕は、君の名を呼ぶ。

 そして、振り向いた君に大きな声で言った。


「僕も、あの曲が好きになったよ!」


 それを聞いて君は、泣きながらにっと笑って見せて手を振ると、すぐにまた前を向いて歩いて行った。






 あれから。

 大学を卒業し、就職してはや数年。

 君と過ごしたあの日々も、もう何年も前になる。


 今やワイヤレスイヤホンが主流となったため、多くのスマホからイヤホンジャックは無くなってしまった。


 それでも、君が置いていったコード付きのイヤホンは、まだ捨てられそうにない。


「おっ」


 あけ放った窓から、再び春風が吹き込んでくる。今度は桜の花びらを、ひとひら連れてきた。


 ちょうど手のひらの上に舞い降りたそれに、君の顔が重なる。


 君は今、僕を思い出してくれているだろうか。

 大人になったつもりでいて、結局そういうことを考えてしまう僕は、やっぱり子どもなのだろう。


「……よし、」


 君が好きだったあの曲をSpotifyで流し終えた。

 アップテンポな次の曲が流れ始めると同時に、片づけを再開しようと僕は立ち上がる。


「うおっ!?」


 同時にまた風が吹き込んできて、手のひらの上の花びらをさらっていった。


「……元気でな」


 花びらは窓の外に舞って、遠くの空に消えていった。


 君から元気をもらったような気持ちになって、心の中がじわりと温かくなるのを感じる。


 桜の花びらが吸い込まれていった青空の向こうに、新しい日々のスタートラインが待っているような、そんな気がした。

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