傘
休日の朝、『しとしと』という音で目が覚める。
カーテンを開けて、ため息をついた。
せっかくのお休みなのに、雨が降っていたから。
けれど、ここで外出をあきらめるのは、なんか負けな気がして。
少し憂鬱になりながらも、私は支度をはじめた。
お気に入りのパーカー。
履きなれたジーンズ。
雨の日のお一人様には、これくらいのラフさがちょうどいい。
軽くメイクをして、準備おっけい。
後は愛用の折りたたみ傘さえ持てば言うことなし。
……だったはずなのに。
その折り畳み傘が見つからない。
――あっ、そういえば
思い至ったのは会社のデスク。
リュックからものを取り出すときに、折りたたみ傘を出したのだ。
万策尽きたか。
がっくりと肩を落としながら、玄関にある傘立てを見る。
そこには、一本だけ紺色の傘が刺さっていた。
そう。べつに、折りたたみ傘のほかにも傘はある。
存在を忘れていたわけでも、壊れているわけでもない。
ちゃんと雨よけとして機能する傘だ。
それでも、使うつもりはなかった。
だって、君との日々を思い出してしまうから。
「うわぁ……」
大学からの帰り、予報ハズレの雨に降られて立ちすくむ。
その日だけは晴れて欲しかったのに。
「そんな嫌そうな顔するなよ。雨がかわいそうだろ。ほら」
隣に並んだ君が、私の上に紺色の傘をさす。
「準備いいだろ? 今朝、においでピンと来たんだ。今日は雨が降るって」
君はとくいげに笑ったけれど、私はその嘘を一目で見破った。
「だったら、なんでびしょ濡れなわけ?」
「あ、ああ、これは、あれだよ……授業、授業で濡れた」
苦し過ぎる言い訳だった。
「もう。急いで買ってきてくれたんでしょ?」
「いやあ、だってさ。せっかくのお出かけだし」
「延期でもよかったのに」
「そんなこと言って、あした死んだらどうするんだ」
「……あの世で後悔する」
私たちは傘の中、身を寄せて歩き出した。
「なんか、狭いんだけど」
奥手な私は、愛情表現がへたくそで。
本当はもっと君と仲良くしたいのに、いつもどこか、あまのじゃくだった。
「じゃあ、もっと近寄ってくれ」
君はそれを見抜いていたみたいに、距離をうめるための理由を作ってくれてたよね。
「どうせ安物ならもう一本買ってくれればよかったのに」
「相合傘、そんなに嫌かい?」
「……そーいうことじゃないけど」
ほのかにふれる君の温度は、私にはすこし熱すぎて。
せまい傘の中、ドキドキという心臓の音が聞こえてしまわないか、心配だったのを今でも覚えている。
「ねえ。右肩、びちょびちょじゃない?」
「そんなことないさ」
私の身体が、めいいっぱい傘に入るようにするために、君はまたうそをついて。
「右足も。車の跳ねた水ですごいことになってるし」
「いやいや、雨の日ってそんなもんだろ」
車のとばしてくる水しぶきから守るために、車道側を歩いてくれていたね。
「……ありがと」
「ん? 何がだよー。俺の方こそ、生まれてきてくれてありがとうな?」
「……ばか」
雨の日が来るたびにそんな調子だったから。
気づけば私は、雨の日も悪くないなんて、考えていたっけ。
けれど今は、あの頃の気持ちなんて、消え失せてしまっていて。
やっぱり嫌いな雨の中を、ひとり、歩いている。
そういえば。と、片方の肩が濡れていないことに気がついた。
思っていたよりもずっと、この傘は大きかったらしい。
だけど、どうして?
持て余した空間は、せまくなくて快適なはずなのに。
ふりそそぐ雨は、ちゃんと傘がさえぎってくれているはずなのに。
冷え切った私の両頬は、傘をわすれた子どもみたいに、濡れてしまっているのだろう。
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