炭酸水

 ——黄昏時には、まだ早いか


 沈む夕日が見たくなり、ひとり、海辺へとやってきた。

 のどに渇きを覚え、携帯した炭酸水を飲む。

 しゅわり、しゅわりという泡の音が、喉の奥ではじけては消えていった。

 それは波の音とリンクして、心地良く僕の鼓膜をゆらしてくれた。


 ——波の音って、お母さんのおなかの中の音と一緒なんだって


 あの日そう語った君は、今、どこにいるのだろうか。







 君との出会いは、ちょうど、今日みたいに心地良い波の音が聞こえる日だった。

 不意に、地平線に沈む夕日を見に海辺へ来た僕の目に映ったのは、海に向かって歌う少女の姿だった。

 その声は海鳴りのように力強くて。

 かと思えば、波打ち際みたいな心地良さを感じさせるような声だった。


 僕は本来の目的なんてすっかり忘れ、少女の声に聞き惚れてしまっていた。

 同時に見とれてもいた。

 沈みゆく夕陽に向かって歌うその姿が、どうしようもなく尊いもののように思えて、気付けば涙が頬を伝っていた。


「……わわっ!?」


 歌い終えた少女は振り返ると、僕を見てすっとんきょうな声をあげた。


「あの、大丈夫ですか?」

「はい……」

「よかったらこれ、飲みます?」


 そう言って少女が差し出したのは炭酸水。


「ありがとうございます。でも、あなたの飲み物がなくなってしまうのでは?」

「大丈夫です。もう一本あるので」


 そう言って少女はにこっと笑うと、ごくごくと炭酸水を喉に流し込んだ。それから、


「……げふっ。失礼」


 小さくげっぷをして、またも「にいっ」と笑った。

 僕はそれを見て何を思ったのか、こう言ったのだ。


「ああ、あの……僕と付き合ってください!!」


 そしてすぐ、「あ、ああ、あ、いきなりすいません!」と取り乱した。自分でもその言葉が口から出たことに驚いていたから。


 けれど、それ以上に少女の反応に驚くことになる。


「い……いいですよ?」

「え……?」


 少女が頬を赤らめながら放った返事に、僕は目を見開いた。


「ち、ちなみに、どこが良かったですか?」

「え、ええと、」

「高音ですか? それとも、声の力強さとか?」


 少女はまじまじと上目づかいで聞いてきたが、僕の答えはそのどちらでもなかった。


「……げっぷ」

「え」

「げっぷが、よかった」


 その答えに少女はお腹をおさえ、「ぷ、くすくす……」と笑い始めた。


「なにそれ。あなた、面白いですね!」

「……君もね」


 それが少女——君との出会いだった。




 それから、君との日々は続いた。

 海辺でのデートが大半で、そこで散歩したり、君の歌を聞かせてもらったり。

 今思えば、君をひとりじめできる贅沢な日々だった。


「いー天気だね」

「そうだな」


 ありきたりな言葉も、君が話せば歌声に聞こえるほど心地良かった。


「見て。うみねこが飛んでる」

「え、海辺の猫って飛ぶのか?」

「ええ!? ちょっと何言ってるの?」

「え、ええ? 猫って飛ぶの!?」

「ちがうちがう。うみねこって、鳥の名前だから!」

「あっはー。知らなかった!」


 うみねこの鳴き声に、ばかみたいに大きい僕らの笑い声が混じる。

 それから僕はハイテンションのままで次の話題を振ることにした。


「この間の歌なんだけど」

「……Youtubeに投稿したやつ?」

「そう!」


 僕の提案で、君の歌を動画投稿サイトに投稿することにしたのだ。


「私、コメント欄見るのこわくて、見てない……」

「大丈夫」

「と言いますと……?」

「なんとね、」


 僕はもったいつけて、間を置いた。君の喉が「ごくり」と鳴る。


「10万回も再生されてるんだ!」

「ええーっ!? ……それってすごいの?」


 思わぬ反応に、僕は思わずずっこける。


「大成功だよ。とんでもない数字さ」

「そっかあ……ふふふ」


 君はまんざらでもなさそうに、ほほえんだ。


「いつか世界の歌姫とかになっちゃうかも?」

「あはは……そうかもな」


 僕はうみねこの飛び交う空の向こうを見つめ、遠い未来を想像した。

 君の歌が大ヒットして、世界中を席巻するような、そんな未来を。

 けれどその時、君の隣に僕はいないような気がして、一抹の寂しさを覚える。


「つんつん」

「ん?」


 肩に感じた指先の感触に振り向くと、君はいたずらな笑みを浮かべ、堤防に座った。


「ひざ枕してあげる」

「……」


 断る理由もなく、僕は君の膝に頭を乗せた。

 リラックスした僕の身体に、波の音と、うみねこの声が、心地良く響いてくる。


「知ってる?」


 君はそう言って、僕の頭をなで始めた。


「波の音って、お母さんのおなかの中の音と一緒なんだって」

「ふうん……」


 だから心地良いのか、と、僕は内心で妙に納得する。

 けれど、満足できなくって、君にあるお願いをした。


「このまま、君の歌を聞かせて?」

「……いいよ」


 僕を見てほほえんだ君は快諾すると、ひとしきり、やさしい歌声を海辺に響かせた。


「……ありがとう」

「うん。他にして欲しいこととか……ある?」


 君はそう聞くと、恥ずかしそうに頬を染めた。

 僕はその奥ゆかしさに、身悶えするようなものを覚えつつ、言った。


「キスして」

「ふふ……」


 そして僕らは口づけを交わした。







 それから瞬く間に君は歌い手としての頭角を現して有名になり、僕の隣を離れることになった。


 まるで、水泡が消えるみたいにあっけなかった。

 なのに、僕の中の君との想い出は消えないままで。

 こうやって沈む夕日を眺めては、あの頃を思い出す日々を過ごしている。

 夕陽を眺めてたそがれていると、君の声みたいな海鳴りが聞こえてきて、いつかどこかで聞いた話を思い出す。


 ——人魚姫は水泡になった後、風の聖霊になって人々に幸せを運んでいった


 まるで、今や多くの人たちを歌で幸せにしている君のようだと思った。

 それでも僕は自分の心に嘘はつけなくて。

 遠くから聞こえる海鳴りの、遠雷のような音に、自分の心を重ね合わせてしまっていた。

 何かを嘆くようにして、心はごうごうと音を立てている。


「……」


 ふと、渇きを覚え、炭酸水を喉に流し込む。

 口に含んだそれをほのかに苦く感じてから少し、腹の底から、小さなげっぷが出た。




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