砂時計

 リビングに飾っている小さな砂時計が、いやに目に留まる。


 薄茶色の本棚の上に立っているそれを、普段は見ないフリをして玄関を出る。

 けれど、休日の今日は見ないふりに逃げこむ理由もない。外出しようにも、外に出る元気もない。


 まるで砂時計に操られてしまったみたいに。僕は出来心から、その砂時計をひっくり返してしまう。


 砂がさらさらと、下に向かって流れ落ちていく。







 はじめに思い起こされたのは、君と二人、旅行に出かけた時の話。


 せっかくの観光であるにもかかわらず、どこにでもある『ドン・キホーテ』をぶらぶら物色する僕ら。

 特に何を買おうという魂胆もない。冷やかしもいいところだ。


「あっ、見て」


 冷やかしで終わるはずの探索中、君が宝物を見つけたみたいに指さしたのは、フォトアルバムだった。


「これよくない?」

「うーん、まあ」

「あははー。思ってないでしょ」


 君はつまらなそうな僕の表情を見て、笑った。

 僕はちょっとやる気を起こし、反論する。


「アルバムを見たところで、辛いことばかり思い出すだけだからさ」

「えー、そう?」

「楽しいことより、悲しいことの方が記憶に残るから。そういう仕組みなんだよ、人間の脳って」


 僕は馬鹿みたいにまじめな顔で語った。

 それを見た君は、


「あはー。デート中に言うことじゃないよねー」


 なんて、馬鹿みたいにけらけらと笑った。その通りだった。


「まあでも、その理論、私がくつがえします……このアルバム、買おうよ」

「いや、買ってどうすんのさ?」

「ふふっ。決まってるっしょ」


 君はそこで言葉をとめ、無駄にキメ顔を作ると、


「作るんだよ、私たちのアルバムを!」


 しゃきーん、という効果音付きで言った。

 僕はひとつため息をつき、顔をしかめる。


「写真の現像は、どうするの?」


 僕の言葉に、君はポカーンとマヌケな表情を浮かべ、それから。


「ゲンゾウ? 誰それ」

「……」


 お笑い芸人のボケとツッコミみたいな、奇妙な調和が僕らの関係性にはあった。


「まあ、だったらこれはどう?」


 あえなくフォトアルバムが没になり、次に君が目を付けたのは砂時計だった。


「これならさ、ひっくり返すだけで過去に戻れるよ」

「いや……そんなドラえもんの道具みたいな」


 いつもの調子でツッコミを入れようとしたが、砂時計から放たれるおしゃれな雰囲気に「……悪くないかも」と思い直した。


「よし、やりい。後は過去に戻りたくなるような思い出を作るだけだね!」


 君はにんまりと少年のように笑って、僕の手を引っ張った。


「次はどの階めぐる?」

「……とりあえず、ドンキからは離れよう」


 そうして僕らは会計を済ませ、スマホ片手に観光名所を巡った。




「ふう、楽しかったあ」


 それから僕らはしっかりと観光スポットを堪能した。

 ハート形オブジェの前で写真を撮り、水族館に行き、クリームソーダを味わった。


 今はホテルの一室で、まったりと今日の一日を振り返っている。


「いやほんと、あなたといると楽し過ぎておかしくなりそう」

「僕は君がおかしくなり過ぎないようにするのに全力だよ……」


 なーんてあきれ顔を作っていたけど、ほんとうは、君との時間が心地良くてしょうがなかった。


 けれど。


「……楽しいとか幸せとかって、虹みたいなもんだよな」


 これ以上その心地良さに浸っていると戻れなくなる気がして、僕は努めて冷静になる。


「と言いますと?」

「遠くからは綺麗に見えるけれど、ふもとに行っても何も無いし、実体も無い。写真や動画に収めて、「あれはキレイだった」って眺めるだけのものだ」


 僕は自分に言い聞かせるようにして、いっぺんに語った。

 そうすることで、傷つかないための予防線を張ったつもりだった。


「……そっか。じゃあ」


 君はいつもは見せないような、物憂げな顔になった。

 それから、静かにキスをすると、ゆっくりと僕をベッドの上に押し倒し、ことわりもなく僕の首筋にかみついた。


「楽しいだけなら忘れちゃうのなら、」


 君はそれだけ言って、僕の背中に手を回し、爪を立て、あとはほとんど言葉なく僕を抱きしめた。


 ——忘れられたら、さびしい


 行為中、耳元で数度ささやかれたその言葉と、身体に幾度も走るにぶい痛みが、無数の傷となって海馬に刻み込まれていった。







 砂時計の砂は、さらさらと落ちていった。


 君との思い出は確かに覚えていた。

 けれど、楽しいことでいっぱいだったはずなのに、古傷がえぐられるように痛かった。


 傷口から流れ出た膿や血液が、涙になってこみあげて、抱きかかえた両膝のジーンズ生地に染みを作っていた。


 ドラえもんがいたのなら戻してほしかった。


 君と出会った頃よりも、ずっと前の僕に。



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