第5話 柏原柚香の場合5

 衝撃、と言うしかなかった。どうやって帰ったかいまいち覚えていない。もちろん、画用紙とクレヨンなんて買ってない。


「自分がないね。」


 呪いみたいにその一言が脳内に何度も響き渡る。夕食を取るのも忘れるくらい。でも、夜になって、このまま寝るわけにはいかないと、のそのそとお風呂を沸かし、メイクを取った。いつもは癒しタイムになるはずのお風呂も全然くつろげなかった。


「自分がないね。」


 気づいたら、お湯が冷たくなってきて、慌ててお風呂から上がった。体を拭いて、化粧水をつけようと手を伸ばしたら鏡に自分が映った。


 これは、誰だろう。


 見れば見るほど、鏡の中で自分が遠い人に思えてきた。女性です。経理の仕事をしています。名前は柏原柚香といいます。それ以外私をなんと表現すればいいんだろう。


「自分がないね。」


 髪も乾かさずに、布団の中丸くなって寝た。



「最近、元気ないね。」


「え、ああ、すみません。」


 理沙さんとのいつものランチをぼんやりとしてしまった。最近集中力がない。薬も飲んでるのに吐く回数が増えた。なんとかミスをしないように仕事をやり過ごすのが精いっぱいだった。心配そうな理沙さんの顔が申し訳なかった。


「柚ちゃん、マッチングアプリってやってる?」


 突然の質問に驚く。


「マッチングアプリ、ですか?」


「そうそう。やったことある?」


「ないですけど。」


「えー、もったいない。今どきみんな普通にやってるよ。」


 普通。普通って何だろう。いや、私は普通のはずだ。理沙さんは自分のスマホの画面を見せてくる。


「これ。このmachってアプリ、私もやってるんだけど、割合ちゃんとした人が多いからお勧め。」


「そうなんですか。」


「ダウンロードしちゃって。」


「え?」


「あ、通信制限とかある?」


「いや、無制限なんで。」


 家にネットをひいてないのでスマホを無制限にしている。


「じゃあ、ダウンロードしちゃって。」


「いや、でも私、こういうの紹介とか書くんですよね。なんかそういうの苦手で。」


「大丈夫。私が全部書いてあげるから。」


 ほらほら、と急かしてくる。こういうの流されていいのだろうか。


「意外と知らない人との方が話せること、多いからさ。」


 その言葉が理沙さんなりの気遣いだと気づいたので、私はmachというアプリをダウンロードした。


「スマホ、貸してもらっていい?」


「え、あ、はい。」


「えっと名前は適当に。ゆっちゃんとかにしておこうか。本名書く必要ないから。後は、趣味。柚ちゃん。何が好きとかある?」


「…ドラマを見ること。」


「OKOK、柚ちゃんよく見てるもんね。じゃあ、家でゆっくりドラマを見るのが好きです、と。あと、写真なんだけど、最近撮った写真ある?」


 理沙さんがスマホを返してくる。写真を選べと言う事らしい。


「え、あの私一人の写真とかないんですけど。」


「いや、むしろ人と映ってるやつとかの方が好印象だから。大丈夫、柚ちゃんのところだけ映るようにできるから。」


 そう言われて写真フォルダを見ると、大学の卒業旅行で友人と3人で撮った写真があった。楽しそうな写真。みんな元気だろうか。


「あの、1年以上前の奴しかないんですけど。」


「全然いいよ。みんなそんなもんだって。わ、この柚ちゃん、かわいい!」


 そう言って、何やら操作して理沙さんは即登録をしたようだ。


「ほら、できた。」


 そこには私だけをアップにした写真とプロフィール。趣味がドラマ鑑賞で、土日にゆっくりランチできる人を募集している、と言ったような架空の私が出来上がっていた。するとぽこぽこ通知が出てくる。


「ほら、さっそくいいね、がきた。こちらもいいねし返すと二人で話できるようになるんだよ。」


「はあ。」


「ほら、みてよ。この人なんて超イケメン!」


 そう言って見せてきた人は爽やかそうな髪をそんなにいじってないイケメンで、アイドルですと言われても疑わないような顔立ちだった。


「いや、こんな人、私には不釣り合いですよ。」


「なんで?柚ちゃん、普通にかわいいじゃん。」


 普通に、かわいい、なら普通なのでは?なんて考えてしまう。


「別にスマホ上で文字を交わすだけなら、いいじゃん。気晴らしになるよ。」


「気晴らし?」


「悩みが解決できないものなら、いったん脇に置いとくのだって大事。」


 そういう理沙さんの笑顔は優しかった。


「ありがとうございます。」


 それは素直に言えた。





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