第22話 鳴子美津の場合5

 透明さんの部屋を出た後、ぼんやりしていた。


「信じろ。君は欲しいものをちゃんと手にしている。大丈夫だ。」


 大丈夫なのだろうか。私は。ランチ、にはまだ早い時間だった。私は少し駅の方へと歩いた。かつかつ、とヒールの音がする。ショーウィンドウに、私の姿が映った。ヒールを履いた、30歳の鳴子美津が映った。


 唐突に私は思い出した。幼稚園の時に、将来何になりたいかを。「ヒールをはいたおねえさん」私はそう書いた。周りのみんながお嫁さんとかケーキ屋さんとかそんなのを書いている中、私はそう書いた。近所に、優しいお姉さんがいたのだ。その人はいつも高いヒールをはいて、口紅をひいて、長い髪をたなびかせて颯爽と街を歩いていた。いつもいい匂いがして、私は憧れた。お母さんとは違う、あの靴は何かと聞いて、あれが「ヒール」だと聞いた。名前までかっこいい。そう思った。


 ショーウィンドウの前には、その私が映っていた。ヒールをはいて街を歩く、私がちゃんといた。初めて、かかとがある靴を履いた時、私はこんな不安定な靴があるのかと驚いた。少し歩いただけで靴擦れができた。悔しかった。色々試して、いつの間にか、私はお気に入りのブランドを見つけ、靴擦れを起こすこともなくなり、今じゃヒールで走ることもできるようになった。


「変わっているか、変っていないか、それは君の感じ方次第なんだよ。」


 歩いた。ヒールの音が心地よかった。もう営業している喫茶店があった。こんなところに喫茶店があったのか、と思った。中に入る。私が一人で喫茶店に入れるようになったのはいつからだろうか。入ってみるとコーヒーの種類がたくさんある店で。私はエチオピアの深煎りを頼んだ。好きなコーヒーの種類がわかるようになったのはいつからだろうか。喫茶店に入って、スマホをいじるんじゃなくて、コーヒーの味を堪能するようになったのはいつからだったろうか。


 なんだ、ちゃんと私は変っていったんじゃないか。窓ガラスに映るお洒落なコーヒーカップを持った私を、信じろ、そう、透明さんに言われた気がした。



「やっぱり、失礼は失礼な人ですね。透明さん。」


 憮然として答える加藤さんに私は思わず笑った。あれから4月になって、滅多に新卒が入らない経理に彼女がやってきた。遅刻してくるわ、指示を素直に受けてくれないわで最初とても苦労した覚えがある。と、同時に、自分も同じ年の頃、こういうところあったかも、と思い出して、成長した自分を感じたものだ。


「でも、意外です。鳴子さんもそんな風に迷ってた時期があるんですね。私からみたら、鳴子さんは仕事ができてすごく素敵な女性なので。」


 柏原さんに言われて、私はとても嬉しくなる。そういう風に、見られていたのか。


「ありがとう。」


 私は素直にお礼を言う。柏原さんは逆に、全部素直に受け入れてパンクしそうになっていた。助けを求めてくれない彼女に随分とやきもきしたもんだ。でもそんな柏原さんも加藤さんも変わっていった。私と一緒にランチをとるようになった。代り映えのない日常なんてない。確かに、変っていくのだ。


 あれから、私は朝、ニュースを見るのをやめた。代わりにYOUTOBEで自己啓発系の動画を見るようになった。SNSも最小限にして、代わりに本を読むようになった。それだけで随分と私の不安は落ち着いて、若い子たちに伝えられることもできるようになった。そんな自分に、今なら自信を持てる。


「というか、開いたんですか。封筒。その超晩婚というの。」


「開いてないの。いつか、その時が来たら、答え合わせをしようと思って、大切にしまってある。」


「それ、とても楽しみですね。」


 柏原さんがそう笑顔でいって、ああ、この子好きだな、とちょっと思う。


「うん、とても、楽しみなの。」


 いつか、開く時が来る。そう思える今が、私はとても幸せなのだ。

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