第19話 鳴子美津の場合2

 朝、起きたら顔を洗って、朝食の準備をする。適当にトーストしたパンと、残り物のスープに火を通して、食べながらニュースを見る。今日も、世界は散々だ。ご飯が終わったら歯磨きをして、すべての服をかけているウォークインクローゼットから今日の服を考える。茶色いジャケットが羽織りたい気分だったので、それに合わせてインナーとパンツを決める。2DKのそんなに広くない部屋だが、このウォークインクローゼットが気に入って決めた部屋だった。鏡の前で合わせて、おかしくないことを確認したら、今度は化粧台の前に座ってメイクをする。20代前半、散々節約して、貯めたお金で一つ一つ買っていた家具はどれもお気に入りのものだった。軽く化粧をして、口紅をひくと、家をでる。まだ薄暗い人の少ない時間に家を出て、会社の人駅前で降りて、朝からやっている店でテイクアウトのコーヒーを買う。その香りに癒されながら会社に歩いていくのがルーティンだった。


「おはようございます。」


 すでに出勤している何人かに挨拶をすると、仕事をするスイッチに切り替わる。さて、今日も長くて短い一日が始まる。30歳になるとある程度仕事に慣れて充実すると聞いたが、そんなことは全然ないと私は思う。年齢を重ねたらタスクが減るわけではない。むしろ、なぜか副部長に任命された私は日々のタスクが増える一方だ。自分だけではなく、人のタスクまで管理しないといけない日々は一人の頃の方がよかったと思っている。やがて人が集まって、仕事して、解散して、また集まって。


 代り映えのない日常なのに、疲弊して、何かが削れていく気がしてたまらない。帰りの電車でスクロールするスマホの中のみんなの日常がやけに早くて、私も走らなければならない焦燥感だけが募る。毎日足踏みしているようなのに、走らないと置いて行かれる感覚。生きるってこういう事なのだろうか。一生このゴールがわからないものの上で走り続けないといけないのだろうか。


 疲れた。


 電車はいつものように景色を流していく。すべてのものがどうでもいいような気がした。全部のものから一度降りてしまいたかった。


 そうやって駅に着くと土砂降りで。傘を買って帰るか悩んだけれど、お気に入りの傘が家にある。ものを増やしたくなかった。いいや、もう、どうでも。私は雨の中を歩きだした。濡れていく感覚がまるで今の自分の気持ちみたいでもう本当にどうでもいい気分になっていく。ふと、自分を濡らす雨が止まった。


「ほら。」


 いつの間にか隣に、男が立っていた。金髪でいかつい顔をした背の高い男だった。金色のネックレスと派手なTシャツ。私は思わず身構えた。


「何も取って食いやしないよ。傘。持っていけ。」


 そうやって傘の柄を私に押し付けた。コンビニで売っているような透明な傘ではなく、有名なブランドの傘だった。


「いいですよ、そんな。もう濡れましたし。」


「風邪ひくぞ。家まで送られるのも嫌だろう。持っていけ。」


「でも、こんな立派な傘。」


「別に、傘なんていくらでも買える。」


「そんな!もったいないです。私、大丈夫ですから!」


「強情な女だなぁ。」


 そう言って、彼はポケットから名刺を出した。


「気が向いたら返しに来たらいいさ。じゃあな。」


 そう言って、私に名刺と傘を押し付けると、彼は雨の中を駆け出して行ってしまった。茫然とその背中を見送った後、名刺を見る。「占い師 透明(とうめい)」そう書いてあるシンプルな名刺は裏を返すと住所が確かに載っていた。透明。


「どこが?」


 随分と強引で、やたらに目が強い男性だったのに。雨の音は大きくて、大きな傘は私をひっそりと守ってくれた。

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