第17話 井出透の場合

 ー井出透(いで とおる)42歳の場合ー


 カーテンを開けて寝ている。そうすると、日の出とともに自然に起きられるから。起きたらまず、シャワーを浴びる。紺色の作務衣を着て、濡れた髪をそのままに、肩にタオルをかけたまま、朝日の当たる窓辺で瞑想をする。気のすむまで。瞑想が終わったら、コーヒーを淹れる。豆から挽いて、97℃にしたお湯でペーパードリップをする。お気に入りの陶器のコーヒーカップにたっぷりとコーヒーを作ったら、ゆっくり味わいながら今日の予定を確認する。


 PCで予約の確認をしていたら、ポップアップが出てきた。


『やっほ。透、今日暇?ちょうど今東京に来たんだけどさ。会える?』


 幼馴染の竿谷日向(さおや ひなた)だった。日本に帰ってくるのは1年、いや2年ぶりか?道理で今日、予約が入らなかったわけだ。


『相変わらずだな。いいぞ。どこがいい?』


 返信をして、今日の予約をすべてクローズにした。どうせ、こいつのことだ。いますぐ!と返ってくるだろう。返信を待たず立ち上がる。原色の派手な色合いの有名なメーカーのTシャツを着て、ジーンズに履き替える。金色に染めた髪を横に撫でつけて、いかついネックレスを付ける。こうすると誰も寄ってこないのだ。知らない人が近くに寄ってこられることを俺は何より嫌っている。勝手に見えてしまうから。


 用意が終わる頃には、日向からここに来るようにと、やはり場所を指定されていたので、俺は有名なメーカーのサンダルを履いて外に出た。眩しい外の日差しに、気持ちよくなっていたら、スーツ姿の人が駅に吸い込まれていく。ああ、出勤の時間か。混んだ電車には乗りたくなかった。幸い場所は二駅分だ。歩いていくことにした。


 俺は生まれつき、見えてはいけないものが見えてしまう人間だった。最初は色のついた煙のような何かが人に巻き付いて見えた。その時々で色を変えるそれが何か、わからないでいた。それを母親によく訪ねていたら、気味悪がられた。


「そういうことを人に言うのは止めなさい。」


 見えているものを人に話してはいけない理由がわからなかったけれど、それを言った時の母親が真っ黒に染まって、気味の悪い目だけがはっきり見えて、とても怖くて怖くて人にまとわりつく色に関して話さないようになった。幼稚園の頃はまだよかった。みんな光に包まれていて、綺麗だった。小学校に入ってから、だんだんと教室が灰色になってきた。気持ち悪かったけれど、母親とずっと家にいるのも苦痛で学校に通った。でも中学校に入ると教室は灰色になった。ある時、学校に吸い込まれる同じ服を着た集団が全部灰色に見えて、気持ち悪くて気持ち悪くて、学校に行けなくなった。父親と母親はよくケンカをするようになった。どちらも真っ黒だった。部屋から出られなくなった。ずっと、部屋の窓から青い空を見上げていた。


「透!」


 カフェに着くと、日向の明るい声が響いた。彼女は太陽みたいに眩しくて、俺は自分が笑っていることに気づく。どれだけ彼女のこの光に助けられただろう。透!そう言って家の外から声をかけられて見た、この地上の光に。


「相変わらずいかちーね、あんた。」


「似合うだろ。」


 はは、と彼女は笑った。席に着くと、彼女はすでにパンケーキをほおばっていた。


「ここさ、世界一おいしい朝ご飯、って書いてあったから気になって。」


「感想は?」


「うーん、激アマ!だけど、フワフワしてて、なんかいい感じ。」


「語彙力が相変わらずないな。」


「うるさいな。うーん、幸せの味?」


「俺が答えを出してやろう。」


 そう言って、同じものを注文した。


「今度はどこに行ってきたんだ?」


「なんか適当に中東あたりをぶらっと。」


「おいおい、大丈夫だったのかよ。」


「大丈夫だったから、ここにいるんじゃん。」


「そうだけど。」


「やっぱさ、困ってる人多いんだよね。だから次は中東を中心に活動してるNPOに入れないかなと思って帰ってきたわ。」


「お前にとって、地球は小さいだろうな。」


「何言ってんの?世界は広いよ?」


「大多数の人間よりは小さいさ。」


「そんなもん?」


「そんなもん。」


 頼んだパンケーキがやってきた。3段に重ねられたパンケーキにたっぷりとホイップされた生クリームが乗っている。これは確かに甘そうだ。おいてあるシロップはかけずに食べようとする。


「ちょっと、何もったいないことしてんの。」


 そう言って日向は俺のパンケーキにシロップを全部かけた。


「おい!」


「あるもんは使わないともったいないでしょう。」


「これじゃパンケーキじゃねえ、シロップ漬けだ。」


「最高じゃん。」


「お前ほど甘いの得意じゃないんだよ。」


「食べたことないなら、試してみなよ。新しい扉開くかもよ。」


 屈託なく答える。日向はずっとこうだ。屈託なくて、無邪気で、思いついたらすぐ行動して。目の前の俺と同じ42歳は年齢よりも随分と若く見える。


「そういや、実家に顔出したら、透のお母さん見かけたよ。」


「ふうん。」


「相変わらず全然会ってないの?随分やつれてたけれど。」


「あいつは俺の言う事なんて聞かないからな。」


「はは。まあ親ってそんなもんだよね。私も言われたわ。いい加減落ち着け。仕事につけ。結婚しろ。すごいよね、42歳にもなって、まだ諦めてないわ、うちの親。」


「一生言い続けるんだろうな。」


「だね。一生聞き続けるのがせめてもの親孝行だと思ってるわ。」


 日向は眩しそうに空を見上げている。


「ほんと、私はこんなに恵まれていて幸せなのに、何がご不満なんだろうねぇ。」


「皆が皆、お前のようには生きられないさ。」


「変なの。こんなに恵まれた場所にいるのにね。」


 それはそう思う。だけど、それが難しい人が多いのだ。そう気づくまでに俺は随分と苦労した。自分の力を呪って、受け入れて、磨いて、ようやくたどり着いた。俺も灰色だったのだ。


 だから、俺は透明でいい。本来、人は誰しも鮮やかな自分たちだけの色を持っている。それに余計な色を混ぜてはいけない。取り戻してほしい。いつの間にかくすんでしまった自分の色を。いつか、この街の人々が灰色ではなく、色とりどりの色になるよう、少しでもできることを。


「いい笑顔になったよね、透。」


「そうか?」


「そうだよ。あの薄暗くてどんよりしていた中学生の透に見せてやりたいわ。占い師になって、よかったんだね、透は。私も占ってもらおうかな。」


「お前には一生必要ないよ。」


「なんでよ。私にも迷う時くらいあるんだけど?」


「でも、お前は自分で掴みとれるから。」


 ずっと、そうやって俺に光をくれたから。「透明?ああ、光ってこと?」そういって、俺を満たしてくれたから。


「いい天気。ねえ、私行ってみたいところあるんだけど、付き合ってくれる?」


「これを食い終わったらな。」


 今日一日、この光に付き合わされるんだろう。じっくりとシロップに浸されたパンケーキは甘くて甘くて、それでも負けないクリームの滑らかさは舌の上でそっと溶けた。うん、まあ、幸せの味でいいかもしれない。



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