第7話 柏原柚香の場合7
いわゆるブッチをされたのだと気づくまでに1時間かかった。駅前の待ち合わせだったから、振り出した雨に肩が濡れた。通りすがりの人の声が雨の中弾んでいるように聞こえた。
男性にそういう扱いを受けたのが初めてで、ショックだった。だからだろう。今、目の前に100均で買ったスケッチブックとクレヨンがあるのは。今日二度目のお風呂上がりの髪を拭きながら、本当に100均ってなんでもあるんだな、って妙に感心した。
真っ白な紙の前に、私は黒を選んだ。いつも描く猫の絵。線を書いて、ぐしゃぐしゃに塗りつぶした。いつもみたいに。下手くそな絵。下手くそな絵!
元の線がわからなくなるくらい真っ黒に塗りつぶすと少しすっきりした。手のひらの端が黒く汚れた。この感覚も懐かしい。何かが堰を切ったようにあふれ出しているのに、放出の仕方がわからない。ただ、ちょっとムカつくと思った。まこと、という人も、透明という占い師も。
そういえば、メッセージ。ふと思い出す。100均でお金を払う時も目に入ったのに無視したあの領収書の封筒。開けてみよう。今、私は何かきっかけを求めている。白い封筒を開くと、味気ない領収書の紙に¥5,000の文字と、下には思いのほか綺麗な文字でこう書いてあった。
"下手ということは好きなことを止める理由にはならない”
ヒヤッとした。髪の毛が冷えたんだ。乾かさなきゃ。立ち上がったら、吐き気が襲ってきた。慌ててトイレに駆け込む。
「おえっ」
しまった。今日は朝からろくに食べてない。胃液が苦い。苦しい。だって無駄じゃないか。画家にもならないくせに描いていたって。下手なくせに描いていたって。
無駄無駄無駄。
「ぐっ。おえっ」
そして、好きなことを止めて、私に今何が残っているのだろう。ああ、胃液って透明なんだな。そんなことを考える。
「はあ、はあ」
トイレの隅でうずくまってしまう。
中学校、高校と美術部だった。絵を描くのが好きだった。
「絵ばっかり描いてないで、勉強しなさい。」
そう、母親に怒られていたのを覚えているので、家でも描いていたのだと思う。でもだんだんと自分は下手なんだと気づいた。デッサンも色の表現も圧倒的に劣っていた。私の描いた絵を誰も褒めてくれなかった。先生にもっとデッサンからしてみようとか、名画を色々見てみようって言われた。そしてだんだん細くなっていった。私の心は。
だから、言われた通り勉強した。普通に言われた高校に合格した。大学に合格した。就職できた。だけどそうやって手にした普通も、今じゃ誰も褒めてくれない。絵を描くよりも頑張った普通を、誰も褒めてくれない。
そうか。私は、ただ頑張ったねって誰かに言って欲しかっただけなのかもしれない。
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