第2話 柏原柚香の場合2

 自社ビルの1Fの自販機で、私は甘いレモンティーのペットボトルを一つ買った。コンビニより幾分安く設定されているからだ。


「おはようございます。」

 

 自社ビルの3階。経理グループ扉を開くと私はそういった。何名かおはようと返してくれるけれど、絶対に返さない人も一人いる。私は気にせず自席に座り、PCの電源をつけた。起動する間に、私はレモンティーの蓋を開けて一口飲むと、髪の毛をバレッタで後ろに束ねた。仕事に入る前のルーティーンだった。今日のタスクを確認していると、


「おはよう!」


 とひと際大きい部長の声が入ってくる。現場上りの部長は内勤になって久しいが、まだ陽に焼けた肌と隆々とした筋肉がスーツに透けて見える人だった。


「いやあ、今日も暑いな。」


 そう言って部長は空調のスイッチを入れた。やはりな。正直部屋はちょうどいいくらいの温度なのだが、彼は何せ暑がりなのだ。私は持ってきたカーディガンを早々に羽織った。


「マジで何なのあいつ!」


 昼休み、お決まりの近くのカフェに一番仲のいい一つ上の先輩の加藤理沙さんと行くと、理沙さんは頼んだパスタが来る前から爆発していた。あいつ、とは部長のことである。きれいな黒髪のショートヘアが上下に動いている。苛立って貧乏ゆすりしているのだ。


「クーラー何度に調節してあったと思う?15℃よ、15!会社出る前に消してやったわ。」


 パスタが届いてからも理沙さんの愚痴は止まらなかった。内勤のこと何もわかってないくせに、口出ししてくるな、とかなんとか。理沙さんの愚痴は止まらなかった。私はそうですね。とだけ返しているだけだが、それで十分なことをもう知っている。


 私はシンプルに「すごいなぁ」と思った。よくもここまで、自分の正当性を主張できるなと。カーディガンを持ってくればいいじゃないか。ブランケットを会社に置いておけばいいじゃないか。相手は部長だ。こちらは合わせる努力をせずになぜ文句だけ言えるのだろう。それがシンプルにすごいと思った。


「あら、それだけでいいの?」


「なんか今日食欲ないみたいで。」


「まあ、いつも同じメニューでそろそろ飽きるよね。」


 私が残したパスタは半分以上残っていた。食欲がないわけではない。ただ、あの波がやって来ているのだ。


 私は席に戻ると早々にレモンティーを持ってトイレに走った。トイレに入って便座をあげると、レモンティーを流し込んだ。


「おえっ。」


 バシャバシャと音を立てて、さっき食べたナポリタンが出てくる。血みたいだなぁとちょっと思った。


 会社で吐くようになって、もう半年になる。いつも胃が気持ち悪くて、ある日突然吐いたのだ。最初は吐いたという行為そのものに驚いた。市販の吐き気止めをいくつか試したけれど、あまり効果がなかった。だから薬局の人に相談してみると、ある薬を勧められた。それが劇的に効いて、感動した。何が他の吐き気止めと違うのだろうと思って、パッケージをよく見たら「ストレスがある時の胃腸薬」と書いてあった。私は動揺した。ストレスをそんなに感じている自覚がなかったからだ。でもまあ環境が変わったのだ、わかっていなくてもストレスを感じているのだろうと思い、以来、時々飲んでいる。


 時々、なのは、吐いてしまった方が楽だと気づいたからだ。最初は胃液の苦さに辛かった吐くという行為も、この甘いレモンティーに出会ってから変わった。吐いた時も甘いのだ。甘ければ、吐くという行為はただの一時の胃の痙攣行為で、そこさえ超えれば楽になった。一時期は帰りにも1Fでレモンティーを買って帰っていたが、ある日、袋いっぱいのレモンティーの空を捨てる時にひどく空しくなってやめた。


 水を流して、個室を出る。初めは、周りを心配させるんじゃないかと思ったが、絶対に隣にも聞こえているだろう嗚咽音も、吐いた後真っ赤になる眼も特に誰にも触れられなかった。一度だけ、私の目を見て「大丈夫?」と聞いてくれた先輩がいたが、「大丈夫です。」と答えてからは特に何もなかった。私は慣れた手つきで口を軽くゆすいで、リップを塗り直し、レモンティーを持って席に着いた。


 

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