ミタマクジラのうた

Rootport

Track #1 録音開始


 起きてしまったことは取り返しがつかないし、まずは生き延びたことを喜びたい。

 現在、水深一〇〇〇メートルを十五ノットで北進中。

 水圧、水温ともに異常なし。

 絶対に忘れない経験だと思っても、記憶は風化していくものだ。

 だから、ボイスレコーダーに今の気持ちを吹き込んでおく。


 いつか、どこかで、この声を聞いている誰かへ。


 俺はトビア・アハシマ。十六歳だ。

 三人の仲間とともに潜水艇ユーノス号で逃げている。サラは疲れて眠っている。トマロックは機関室で作業中だ。たぶんアスタルテも一緒だろう。


 サラ、彼女だけでも救うことができてよかった。サラ……。


 ああ、どこから話せばいいか分からない。

 けれど間違いなく、すべての始まりはあの雨だった。

 あの日、学校を早退して船渠に向かう道すがら、ぽつり、と冷たいものを頬に感じたのだ。思わず手のひらを広げると、続けて二、三粒の水滴が指の間を滑り落ちた。近くに樹木はなかったから、枝先からつゆが落ちてきたのではない。


 生まれて初めての雨は、舐めるとほのかに塩辛かった。


 そうだ、まずは俺たちがどこから来たのかを話しておこう。

 俺たちの「都市」は、海底三六〇〇メートルの場所に広がっていた。

 都市と言っても立派なものじゃない。野生化した動植物に占拠された廃墟の街だ。直径およそ十二キロメートルで、透明なドームに覆われていた。ドームの高さは一番高い場所で約三〇〇〇メートル。薄いレンズ型の気泡のなかで暮らしていたようなものだ。

 ドーム内部の気温や湿度の関係で、ごくまれに──それこそ百年に一度ぐらいの頻度で、雨が降る。


 だからあの時の俺は喜びさえした。

 みんなに自慢話ができると、微笑みさえしたのだ。

 見上げれば、透明なドームには照明装置が等間隔で並んでいて、その向こうに真っ暗な深海が広がっていた。何台もの「ミジンコ」が――二人乗りの超小型の潜水艇のことを、俺たちはそう呼んでいる──ふわふわとトロール網を引っ張っていた。


 なぜ俺たちの祖先は、ドームを透明な素材で作ったのだろう?

 日光は水深数十メートルしか届かない。現在のように海面が氷河で覆われているなら、なおさら光の到達深度は浅くなる。

 サラは夢見がちなことを言っていた。これはご祖先さまの希望なのだと。何万年後かに氷河が融けて、都市に日差しが射し込めばいい。そう願って、ご先祖様は天井を透明にしたのだと彼女は言った。


 ドームと地上との接合部には、都市をぐるりと囲む城壁のような建造物がある。

 分厚い城壁の内側には細長い通路が張り巡らされていて、迷い込んだら二度と出られない。安全だと分かっている通路を抜けた先に、俺たちミジンコ乗りの船渠があった。


 雨が降ったという話を、あの日、仲間のミジンコ乗りは信じなかった。

 証拠もないたわごとに聞こえたはずだ。

 俺は仲間から離れて、自分の仕事に取りかかった。


 愛用のミジンコに滑り込み、ハッチを閉める。

 出航シークエンスを起動して、レールの上を運ばれる。

 目を閉じたままできるほど繰り返した操作だ。

 レールの行き先は「注水チェンバー」という小部屋で、都市のもっとも外縁に位置している。壁一枚を挟んだ向こうは海中だ。

 背後で注水チェンバーの隔壁が閉じ、小部屋のなかを海水が満たしていく。

 ミジンコが完全に水に沈むと、今度は水圧計の針が動き始める。

 恐ろしい数値まで針が振り切れると、前方の壁が開いて、ミジンコは海底に放り出される。


 こうしてボイスレコーダーに向かって説明している今でも情景が目に浮かぶ。

 ミジンコはあまりにも深く俺の日常に組み込まれていた。


 ミジンコ乗りに一番多いのは漁師だ。網を引いて魚を取り、都市の台所を支えている。

 かくいう俺はクズ屋だった。ドームの周辺に沈んでいる旧世代の遺物を拾い集めて、使えそうなものを売りさばく仕事。俺たちクズ屋は漁師たちには嫌われていた。海底からガラクタを掘り起こすと軟泥が舞い上がり、その泥で魚が逃げるとか何とか――。


 雨が降ったあの日、俺が海中に出るとミタマクジラの唄が聞こえた。

 普通の鯨の声ではない。優しく、はかなく、祈るようなメロディが、はるか遠くの海底山脈から聞こえてくるのだ。毎日のように耳にすることもあれば、半年くらいぱったりと聞こえなくなることもある。

 教師が言うには、ミタマクジラの声は死んだ先祖の子守唄だそうだ。海底山脈の向こうにはミタマクジラという生き物が棲んでいて、人は死ぬと魂がその一部になるという。

 この話を、俺は信じていなかった。

 人は死ぬとミタマクジラになるだって?

 死んだ経験もないやつに、どうしてそんなことが分かるのだ。

 魂だの、死後の世界だの、俺には非現実的な妄想だとしか思えない。


 けれど、ミタマクジラの唄は確かに聞こえる。これは現実だ。


 だから正体を突き止めたいと俺は思った。三歳のころ、ホオリ叔父さんのミジンコに同乗して、初めてその唄を聞いたときから俺は心に決めたのだ。いつかあの海嶺かいれいを越えてミタマクジラを捕まえにいく、と。

 子供じみた夢なのは分かっていた。

 ミジンコの動力源は、一度の充填で三時間しか持たない。海底山脈を越えるのはおろか、すそ野にたどり着くことさえできないだろう。

 ちなみに海面近くまでは比較的簡単に行けるけれど、氷河に穴をあける手段がない。二百年くらい前に氷上に出た探検隊は、結局、戻ってこなかったという。俺たちは海底に閉じ込められたまま、旧世代の遺した「都市」にすがって生きていた。


 ミジンコの稼動時間は短く、一秒たりとも無駄にできない。

 ミタマクジラの唄を耳にしながら、あの日の俺は海底に向かった。

 いつも通りに。何が起きているのかにも気づかずに。


 あの時はまだ、サラとも知り合っていなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る