Track #2 家族

 雨が降った日――。

 俺が仕事から戻るとアスタルテがかんかんに怒っていた。

 エプロン姿で腰に手を当ててふんぞり返り、赤毛の巻き毛を逆立たせていた。

「ホオリ叔父さんが帰ってこないんだけど!」

「どうせカネンスさんのところだろ」と俺は答えた。「海中作業に出て遭難したわけじゃないんだ。じきに帰ってくるさ」

「ええ、帰ってくるでしょうね。あたしの作った夕食がすっかり冷めて、カビでも生えたころに」

 見れば、食卓には四人分の食事が並んでいた。テーブルの片隅には、湯気でメガネを曇らせながら、トマロックがちょこねんと座っている。彼はおずおずと口を開き、

「カビが生えるには最低でも二晩かかります。そ、そこまで遅くなるとは思えないです」とか何とか言った。

「分かってるわよ!」とアスタルテは吠えた。「冷めるのもカビが生えるのも、味が台無しになるのは同じでしょう。ていうか、トビアちょっと待ちなさい。帰ってから手は洗ったの? つまみ食いは許さないわよ。夕食は全員で揃って食べるんですから!」

「へいへい」と気のない返事をすると、アスタルテはますます顔を赤くして、俺を洗面所へと蹴っ飛ばした。まるで母親のように口うるさい彼女だが、歳は俺と一つしか違わない。


 手洗いとうがいを済ませて食堂に戻ると、アスタルテは部屋の隅から隅へとうろうろと往復していた。

「まるで腹をすかせた猛獣みたいだな」

「そうよ、お腹が空いてるの!」

 だったら先に三人で食べ始めればいいと思うのだが、アスタルテはそれを許さない。前にも一度、似たようなことがあった。仕事で遅くなったホオリ叔父さんを待ちきれず、俺がパンを齧ったらケンカになった。


「食事を別々に取るなんて、絶対にダメよ」

 パンでケンカした時と同じ口調で彼女は言った。

「あたしたちは家族なんだから」


「じゃあ、迎えに行ったら? カネンスさんのところに」

 すると彼女は、ニカッと笑った。

「トビアにしては冴えてるわね。ぜひ迎えに行くべきね」

「誰が?」

「あんたに決まってんでしょ。働かざるもの食うべからず。さあ、行った、行った」

「働かざるもの……って、あのなあ。俺はクズ屋の仕事から帰ってきたところだ」

「つべこべ言わない!」

「あ、あのう、僕は研究室に戻っても──?」

「そこで待ってなさい!」

 どいつもこいつも自分勝手なことばかり言って……、とアスタルテは愚痴をこぼす。俺はそそくさと食堂を後にした。これ以上、火の粉を浴びるのはごめんだ。ホオリ叔父さんを連れ帰る以外にアスタルテの腹の虫を収める方法はなかった。


 彼女は一つ、嘘をついていた。


 俺たちは血のつながった家族ではない。

 俺も彼女も、十五年前の「大火災」で両親を失った。彼女はホオリ叔父さんの姪だし、俺に至っては、親しい知人の息子でしかない。

 今年十三歳になるトマロックは、叔父さんに才能を見込まれて三年前から一緒に暮らしている。彼の両親は、十歳にならないうちから複雑な方程式を解く息子を気味悪がって、半ば育児放棄していた。それをホオリ叔父さんが引き取ったのだ。


 俺たちは、城壁の内部を改装して住居として使っていた。


 ミジンコの船渠と同じように、もとは旧世代の設備だったのだろう。ホオリ叔父さんが半生をかけて、まともに暮らせるように整備したのだ。都市の住人には「ガラクタ部屋」と呼ばれている、俺たちの楽しいわが家だった。


   ◇


 地上に向かう長い階段からは、ドーム内部が見渡せた。


 鬱蒼とした樹林がどこまでも広がり、木立の切れ目には街道が走っている。

 道の交わる場所には小さな集落があって、木造の家が肩を寄せ合っている。

 そしてドームの中心部には、もはや誰も住んでいない高層ビル群がそびえ立っていた。廃墟の摩天楼。いちばん高い塔のてっぺんにはスピーカーがあって、毎日同じ時間にチャイムを鳴らす。

 俺が階段を降り切ったとき、ちょうどチャイムが鳴り始めた。

 もうこんな時間か、アスタルテが怒るのも無理ないな、と思ったのを覚えている。


   ◇


 カネンスさんについて、俺はあまり多くのことを知らない。

 いつも静かに微笑んでいるお姉さんで、歳はまだ三十に届いていなかったはずだ。ホオリ叔父さんとは二、三年前から付き合っていて、たぶん結婚を望んでいた。

 だけど叔父さんは「私よりもいい相手がいるはずだ」と言い張って、二人の関係はちっとも進展していなかった。きっと、ホオリ叔父さんは歳の差に恐れをなしていたのだろう。十歳も年下のカネンスさんを妻に迎えることに、何か後ろめたい気持ちを覚えていたのだと思う。

 木立の道を抜けて小学校につくと、オルガンの音と子供たちの歌声が聞こえてきた。カネンスさんはまだ仕事中だったようだ。校舎の窓から覗くと、子供たちが輪になってオルガンを囲んでいる。練習しているのは童謡だった。


   見よ 天は創造主のみわざを語る

   かの栄誉 かのみわざ 御空にあり


 俺も子供のころに何度も歌わされた曲だ。

 海の上、分厚い氷河の向こうにあるはずの空に想いを馳せた歌。

 教室の後ろのほうで、ホオリ叔父さんが耳を傾けていた。オルガンを弾いているのはカネンスさんだ。

「はい、今日はここまで。みなさん、気をつけて帰りましょう」

「先生さようなら! また明日!」

 子供たちは大声で叫ぶと、蜘蛛の子を散らすように教室から飛び出していった。


 入れ違いに、俺は部屋に入った。

「叔父さん、一緒に帰ろう。アスタルテが怒っているよ。夕食にカビが生えるって」

「カビ?」と、カネンスさんが首をかしげる。叔父さんが答えた。

「あの子は物事を大袈裟に言うくせがあるんだよ。それでお前が迎えに出されたわけだな、トビア?」

「絶対に夕食を一緒に食べると言って、頭から湯気が出るほど怒っていたよ。おでこでイモがゆでられそうだった」

「おお、怖い。それを聞いて帰りたくなくなったよ」と、叔父さんはカネンスさんの肩に手をかける。

「あのな、叔父さん──」

「ごめんなさい、きっと私のせいだわ」

 その手を取って、カネンスさんが言った。

「今日は授業が長引いてしまったのよ。いつも通りの時間に終わっていたら、きっとアスタルテを怒らせることもなかったでしょうね」

 教室の黒板に目を向けると、白いチョークで分数の計算方法が書かれていた。授業が長引いた原因はこれだろう。

「できの悪い生徒を持つと大変ですね」

 俺が言うと、カネンスさんは肩をすくめた。

 ホオリ叔父さんは声をあげて笑った。

「トビア、お前だって分数の足し算でさんざん苦労しただろう。忘れたとは言わせないぞ」

 今度は俺が肩をすくめる番だった。

「そうだ、カネンス。今夜はうちで夕食をとらないか?」

「あら、ガラクタ部屋で?」

「みんなで食べたほうが楽しいだろう。それに君がいてくれたらアスタルテの機嫌がよくなる。私はあの子に噛み付かれずに済む」

「さもないと、叔父さんはのど笛を噛みちぎられるかも」

 カネンスさんは「もう」と口を尖らせた。

「二人してひどい言い方ね。アスタルテみたいな綺麗な女の子を捕まえて、まるで猛獣みたいな扱いだわ」

 俺たちは顔を見合わせた。

「アスタルテが、綺麗な女の子?」

「蜂は姿が華麗なほど、獰猛な性格をしているものだよ」

 カネンスさんはくすりと笑った。

「今のセリフ、アスタルテに言いつけてやろうかしら」

 オルガンの蓋を閉めて立ち上がる。

「お言葉に甘えて、今日は夕食をごちそうになるわ。あの子はお料理上手ですもの、楽しみね」

「ただし、カビが生えているかもしれませんよ」

 意地悪く言うと、カネンスさんに頭を小突かれた。


   ◇


 二人を連れ帰ると、アスタルテは飛び上がるほど喜んだ。彼女はカネンスさんが大好きなのだ。風呂上がりに鏡に向かって「どうしたらカネンスさんみたいになれるのかな」とつぶやいているのを目撃したのは一度や二度ではない。


 俺たち五人はガラクタ部屋の食堂に集まり、遅めの夕食をとった。カネンスさんをもてなすためか、こんだてが二品ほど増えていた。

 ホオリ叔父さんが冗談を言うたびに、俺たちは声をあげて笑った。あの大人しいトマロックでさえ、あの晩はメガネがずり落ちるほど笑っていた。そのたびにアスタルテは手を伸ばして、彼のメガネを直してやるのだ。まるで赤ん坊の世話を焼くように、アスタルテはトマロックにべったりだった。


「そういえば今日、雨が降ったよ」


 俺が言うと、すかさずアスタルテが口を挟んだ。

「嘘をおっしゃい。雨なんて降るものですか」

「トビア、本当かい? ずいぶん珍しいものを見たな」

「……雨って、理論上のものだと思っていました」

 トマロックがぽつりとつぶやいた。カネンスさんが答える。

「私はずいぶん前に一度だけ見たことがあるわ。大火災の前、まだ小さい子供だったころに」

「ああ、私も覚えているよ。あの時は新聞がずいぶん騒いだものだ。たしか、都市の北東のいくつかの集落で雨が観測されてね。降り止んだあとも、たくさんの人があの辺りに押し掛けたんだよ。よせばいいのに、私の姉も──」

 言いかけて、ホオリ叔父さんは口をつぐんだ。

 叔父さんの姉はアスタルテの母でもある。


 そして、彼女はもういないのだ。


「雨の話は、やめよう」と叔父さんは言った。「空から真水が降ってくるだけの話だ。宝石でも降ってくるならいざしらず……」

「真水だって?」

 思わず俺は訊いた。叔父さんの代わりにトマロックが答えた。

「……うん、真水です。地上から昇った水蒸気が、ドーム上部で冷やされて水滴になるんです。純度の高い真水です」

「そうか……」

 俺は言葉を失った。

 初めての雨は、舐めるとほのかに塩辛かった。

 あれは真水の味ではない。

 もしも、あれが雨でないとしたら、いったい何だというのか。


 考えるまでもなかった。俺にとってなじみ深い味──。

 あれは、海水の味だ。


 ドームの水漏れが始まっていた。

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