Track #3 サラ


 サラ・ウィーセルについて、何から話せばいいだろう。

 絹のような肌についてだろうか。しなやかな黒髪についてだろうか。ガラス細工のように繊細な指先についてか。銀貨のような灰色の瞳についてか。


 あるいは、その瞳がもはや何も映していないことについてだろうか。


 彼女の目はいつも不思議な光をたたえていて、失明しているとはにわかに信じられなかった。


 ああ、サラ──。

 もしも彼女を死なせていたら、俺がこうしてボイスレコーダーに向かうこともなかっただろう。

 銃口を咥えて、ためらいなく引き金を弾いたはずだ。

 サラがいなければ、わずか一秒でさえ生きるのは苦痛だ。


 不本意だけど、やはり彼女の父親の話から始めよう。


 サラの父、ヘルモント・ウィーセルは都市で随一の実力者だった。ガス会社の取締役を務め、村長会議では議長に就任していた。そして何より、十五年前の「大火災」を解決した英雄だった。

 旧世代の叡智えいちのもっとも輝かしい部分は地下に隠されている。

 都市の地表部分はあくまでも居住区で、その環境を維持するための設備はすべて地下に埋設されていた。ガスの精製設備もその一つだ。どうやら俺たちの都市は巨大なガス田の上に作られたらしい。照明も、電力も、無尽蔵に噴き出すガスによってまかなわれていた。

 ガスの値段一つで、俺たちの生活は変わる。

 ガス会社の重役が強い権力を握るようになったのは当然のなりゆきだった。

 とはいえ、ヘルモント・ウィーセルは最初からカリスマだったわけではない。史上最年少で取締役に選ばれたときは、親の七光りだと散々に叩かれたという。若いころの苦労のすえに今の地位を手に入れたのだ──、とサラから聞いた。

 彼女は口では父親が嫌いだと言いながら、ヘルモントの仕事について説明するときは妙に舌が滑らかになり、声は熱っぽくなる。


 彼が確固たる地位を手にしたのは「大火災」のおかげだ。


 十五年前、老朽化した地下設備が爆発して、都市の中心部に巨大な縦穴が開いた。摩天楼は火柱に包まれて、人の住めない場所になった。地下からガスが供給され続けるため、消火は不可能。

 しかもガスには有毒な成分が含まれており、都市の住人は全滅の危機に直面した。

 これが、のちに「大火災」と呼ばれる事故だ。


 事態を収拾したのはヘルモントだった。


 都市の南西部には、全住民が避難できるほど大きなシェルターがある。そこに助けられるかぎりの人と動物を詰め込んで密閉し、それからドーム内部に二酸化炭素を充満させた。

 こうして摩天楼の鎮火に成功したのだ。

 幸い、ガスの精製段階で発生する二酸化炭素の備蓄は充分にあった。この作戦の発案から実行まで、ヘルモント・ウィーセルがすべて指揮した。


 避難してから二週間後、人々がシェルターの外に出ると、都市は森閑とした静けさに包まれていたという。逃げ遅れた者はみんな窒息死していた。地面には小鳥や虫の死骸が転がっていた。動くものは何一つ無かったそうだ。


 大火災のあと、ヘルモントは自分以外の取締役を厳しく糾弾した。

 設備点検を怠ったことが事故を招いたとして、軒並み辞職に追い込んだ。

 現代の俺たちが点検したところで、旧世代の技術を理解できるはずがない。しかし英雄となったヘルモントは、もはや無敵だった。息のかかった者だけで取締役会を固めて、揺るぎない地位を確立した。


 当時一歳だった俺は、大火災のことを何も覚えていない。

 アスタルテには、うっすらと記憶があるらしい。悲鳴の飛び交う中を逃げ惑ったこと。仄暗いじめじめした場所で二週間を過ごしたこと。そういうことを、わずかに覚えているという。そして、サラは──。


 サラは、大火災のさなかに生まれた。


 ヘルモントが必死で都市を守ったのは、そしてカリスマになったのは、身重の妻を救うためだった。サラは薄暗いシェルターの中で産声をあげた。しかし彼女の母は産後の出血が止まらず、そのまま命を落とした。


 ヘルモントには、妻がいなくても子供を育てられるだけのカネと力があった。

 大火災の二年後に後妻をもらったのは、周囲の目を気にしてのことだろう。得意先のパーティーに呼ばれたときに、連れて歩ける女が必要だったのだ。しかしサラは、継母には最後まで懐かなかった。

 継母はサラに音楽の道に進んで欲しかったらしい。

 サラは四歳ごろから楽器教室に通わされて、オルガンの英才教育を受けたという。ところが、いざ小学校に上がってみると、サラは音楽よりも図画工作のほうが得意だった。継母はさぞかし落胆したに違いない。当時のサラは、まだ視力を失っていなかった。


 九歳のころ、サラは人生を変える出会いを経験する。

 普段は仕事にしか興味のないヘルモントが、何の気まぐれか、娘に土産を持ち帰った。取引先から贈られたという、小さな懐中時計だ。螺鈿らでんの文字盤には純金の数字が打ち込まれ、メッキされた針が時を刻んでいた。


「何より、内側がすてきだったの」とサラは言っていた。「裏蓋を外すと、真鍮の歯車がぎっしり詰まっていて、忙しそうに動き続けていた。ゼンマイが切れるまで、ずっとだよ?」


 なんて可愛いのだろう、とサラは思った。


 それまでサラは、時間とは目に見えない巨大な力の流れであり、時計はその流れを受け止める風車のような仕組みで動いているのだと信じていたらしい。時計の裏蓋を外した日、サラの思い込みは正された。

 そして彼女は、自分にも作れるのではないかと考えた。

 時間を受け止める風車の作り方は分からない。けれど、ゼンマイと歯車なら自分にも組み立てられるはず──。


 女の子にしては変わった発想だと俺が言うと、サラはほほを膨らませた。

「年頃になると、女の子はみんな刺繍や編み物にハマるでしょう。私の場合、それが時計だっただけ!」


 そしてサラは、装飾時計の製作にのめり込んでいった。

 そのころから視界がかすんだり、視野の一部が黒く欠けることがあったという。けれどサラは誰にも相談せず、ひたすら時計作りに没頭していった。


 サラは権力者の娘だ。教師も、同級生も、腫れ物に触れるようにサラに接した。

 学校に居場所はなく、たまに屋外に遊びに行くときは、いつも女中や執事に監視される。

 そんな彼女が唯一、本当の自分と向き合えるのは、部屋にこもって時計をいじっているときだけだった。


 サラの趣味は家族には理解されなかった。

 子育てに興味のないヘルモントはともかく、継母は時計作りをやめさせたがっていたようだ。時計職人などになったら嫁の貰い手がなくなる。ヘルモントの資産の相続権を手にするために、継母はサラに早く結婚して家を出ていって欲しかったのだ。


 もしも目の不調を打ち明けたら、小さな歯車を見つめ続けたことが原因だと言われて、時計作りを禁じられるかもしれない。そう考えたから、サラは視力のことを誰にも相談しなかった。


 組み立てた時計の数が十を超えたあたりから、サラは自分で歯車を削り出すようになった。

 百を超えたあたりから、両親に秘密で工芸品評会に出品するようになった。

 視力は少しずつ悪化していたけれど、まさか失明するとは思っていなかった。


 サラが目の不調を隠しきれなくなったのは十四歳のころ、俺と出会う一年前だ。

 そのとき彼女は、両親と三人で会話のない夕食を摂っていた。魚料理のナイフを取ろうとしたら、手がぶつかってワインのデキャンタを倒してしまった。

「電灯が切れたのでしょうか」とサラはつぶやいた。「じいや、予備の明かりをつけてください」

 煌々と光を放つ電灯がサラには見えなかった。

 テーブルクロスがワインの赤さに染まっていく様子も、サラには見えていなかった。


 彼女は一人、暗闇に放り込まれた。


 幸い、そのときは二、三時間で視力が戻ったという。しかし目のことを秘密にしておけなくなった。ヘルモントはカネとコネを駆使して、娘の目を治そうとした。だが、サラの眼病は脳に原因があり、現代の医学ではどうにもならなかった。

 その日から、サラは失明と回復を繰り返すようになった。

 徐々に盲目の時間が長くなり、目の見える時間は短くなっていった。


 完全に視力を失う前に最高傑作を残したい。そう考えた彼女は、タイタニウム──絶対に錆びない金属──の部品を使い、半永久的に壊れない時計を作ろうとした。

 俺たちの都市には、その金属を精錬する技術は残っていない。

 海底に埋まったガラクタから、ごくわずかに抽出できるだけだ。タイタニウムを手に入れるにはクズ屋から買うしかない。


   ◇


 ウィーセル家から発注を受けたとき、俺はまだクズ屋の仕事を始めたばかりだった。

 注文の品を何度か配達しているうちに、サラという娘がいることを知った。

 荷物を受け取るのはいつも屋敷の使用人で、当時の俺はサラの顔を見たことがなかった。だけど、なんとなくと感じていた。タイタニウムの値段を知っていれば、誰でも同じ気持ちになるだろう。金持ちの道楽娘め、と。


 その日も、俺は学校を早退して配達に向かった。

 ウィーセル家の屋敷は広く、門扉から玄関まで落葉樹の木立が続いている。荷物を脇に抱えて、木漏れ日の落ちる道を急いだ。ふと横に目を向けると、用水路のそばに少女がうずくまっていた。


 それが、サラとの出会いだ。


 彼女の白いワンピースは泥だらけで、髪には落ち葉がくっついていた。顔はぐしゃぐしゃに泣き腫らしていた。片手を用水路の流れに突っ込み、もう一方の手にはナイフを握っていた。


 彼女は手首を切ろうとしていた。

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