Track #17 最後の日(8)


 道路はどこも水浸しで、二輪車の後ろには大きなしぶきが上がった。


 遠くの街道をぞろぞろと歩く人の群れを見かけた。

 シェルターに向かう人々だ。


 ウィーセルの屋敷に着いたときには、うっすらとガスの臭いが漂い始めていた。

 天井からの落下物で地表に穴が空いたらしい。

 瓦礫混じりの濁流が流れ込んで、地下のガス精製設備は破壊されつつあるのだろう。


   ◇


 するどい悲鳴を聞いて、俺は二輪車を飛び降りた。


 サラと始めて出会った場所にも、すでに泥水が侵入していた。

 ぬかるみに足を取られそうになりながら、ぱしゃぱしゃと水を蹴って走る。

 その間にも、サラの悲鳴は続いていた。


「……やめてください! お願い、やめて。放して!」


 彼女の声に混ざって、男たちの下卑た笑い声が聞こえてきた。

 サラが何か叫ぶたびに、ゲラゲラと歓声を上げる。

「いいだろ。どうせ俺たちは全員死ぬんだ。だったら最後ぐらい一緒にじゃねえか」

「どけよ。生意気な女は殴ってやりゃあいいんだ」

 肉のぶつかる音。別の男がひゅうと口笛を鳴らす。

「たまんねえ。一度でいいからこういうカネ持ちの女を──」


 怒りのあまり、頭の中が真っ白になった。


 玄関に回り込むのももどかしくて、俺は部屋の窓を蹴破った。

 やめろ、サラに触るな。そういう意味のことを言おうとした。

 けれど言葉にならず、声の限りに叫ぶだけだった。


「お前らぁっ──!」

 銃を構えて、部屋の中に飛び込む。


 絨毯がじっとりと濡れていた。

 棚に並んでいた時計は、大半が奪われていた。

 男の数は六人。全員、俺と同い年くらいだろう。

 工具が床に散らばり、中央の作業机にサラが押し倒されていた。

 ワンピースの襟ぐりが破けて、下着と白い肌が露出している。


「トビア……なの……?」

 視線を宙に漂わせながら、サラが言った。


「お友達の登場ってわけか」

 六人のうち、リーダー格とおぼしき一人が言った。

 節くれ立った指を、サラの鎖骨の辺りに這わせている。

 銃口を向けると、彼は愛想笑いを浮かべた。

「おい、そう熱くなるなって。俺たちはもうおしまいだ。今さらそんな豆鉄砲を向けられても、なあ?」

「口からクソを垂れるなゴミ野郎。サラから離れろ」

 ハハハッ、と相手は声を上げて笑った。

「分かったよ。こいつはあんたのおもちゃだったんだな。それなら、こうしよう」

 サラの黒髪が、涙で頬に貼り付いていた。

 男は、まるで飲み屋の場所を選ぶみたいな口調で言った。

「俺も悪魔じゃないからな。まずはあんたにこいつを渡してやる。それから俺たちに回してくれよ」

 男の指がサラの胸元を降りていき、乳房を掴んだ。

 サラは眉を寄せて苦痛の息を漏らす。


 俺は、ためらいなく引き金を引いた。


 男たちは一瞬息を飲み、わずかに身をのけぞらせた。

 傲岸不遜ごうがんふそんなリーダー格の男でさえ、体を固くして目を見開いた。


 かちゃ……。


 撃鉄は、空っぽの弾倉を叩くだけだった。

 サラに渡されたのは三連発の回転式拳銃で、とっくに弾を撃ち尽くしていた。

 全身から血の気が引いていくのを感じた。


 男たちの顔が、見る間に怒りに染まっていく。

「脅かしやがって──!」

 ののしり声を上げて、一斉に俺に殴り掛かってきた。


 一人目の右拳は体を引いて避けた。

 二人目の蹴りは、両腕を盾にして防いだ。

 けれど、そこまでだった。

 三人目の殴打が俺のあごを捕らえ、四人目の膝がみぞおちに食い込んだ。


「ぐふっ!?」


 肺から空気が抜けて、立っていられなくなる。

 四つん這いになった俺の脇腹に、容赦なくつま先が突き刺さった。

 胃の中身をぶちまけると、男たちは拍手喝采して喜んだ。


 防水トランシーバーが床を転がり、男たちのかかとで踏み壊された。


「立てよ! 休憩してんじゃねえよ!」

 髪を掴まれて、無理やり立たされる。

 と、同時に角材のようなものでこめかみを叩かれた。

 まぶたが切れて血が噴き出し、視界の片方が使いものにならなくなる。

 脳みそがぐらぐらと揺れた。


 消し飛びそうになる意識を必死でつなぎ止める。


「……言っただろう、俺は悪魔じゃないってなあ」

 くすくすと笑う声。あのリーダー格の男の声だ。

「逃げたければ、さっさと逃げろ。ほら、部屋のドアはそっちだ。痛い思いをするのは嫌だろ?」


 肝臓の辺りを蹴られて、俺は情けない声を漏らした。

 男たちの手足から逃れるため、必死で床を這い回る。


 サラを置いて逃げれば、この苦痛からは解放される。

 滲んだ視界の向こうに、部屋の出口が見えた。

 サラを置いて逃げさえすれば──。


 最低の発想だと思った。


 床に散らばった工具のなかにドライバーを見つけた。

 這いつくばったままそれを掴むと、ふり向きざまに、近づいてきた男の太ももに突き刺した。


 相手は悲鳴をあげた。


 俺は叫んだ。

「殺してやる──!」

 抜き取ったドライバーを両手で握り直し、高々と振り上げる。

 相手の眉間を狙って、まっすぐに振り下ろす。


 が、横から飛びかかってきた男に突き飛ばされて、またもや俺は床に突っ伏した。

 塩辛い水が、絨毯の繊維とともに口に入ってくる。


 誰かに後頭部を殴られた。

 灰色になる意識の向こうで、サラが泣き叫んでいた。


「お願い、トビアを殺さないで──!」


 気づけば俺は仰向けに倒れていた。

 四肢は男たちに押さえつけられている。

 骨を踏み砕かれたのか、左手の小指が燃えるように熱かった。


 リーダー格の男が、俺に馬乗りになっていた。

 彼の目は憤怒に燃え、手にはドライバーが握られていた。


「……死ね!」


 彼が腕をふり上げるのが見えた。

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