Track #16 最後の日(7)


 案の定、小学校には誰もいなかった。

 塩気を含んだ空気が薄暗い教室を満たし、机には教科書やノートが開かれたままになっていた。


 万が一を期待したのだ。

 もしもホオリ叔父さんが自力で警察署から逃げ出していたら、まず真っ先に小学校に来るはずだ。

 しかし、黒板にはカネンスさんの伝言が書かれているだけだった。


『保護者と連絡の取れない児童が七名います。私はこの子たちと一緒に避難しますが、シェルターまで歩いてたどり着けるか分かりません。もしもの際には、できるだけ高い場所を探して避難します。──カネンス』


 叔父さんがここに来ていたら、俺やアスタルテに向けた伝言を書き残して行くだろう。

 それが見当たらない以上、彼はまだ警察署に囚われているはずだ。


   ◇


 俺は教室を後にして、再び二輪車にまたがった。


 本音を言えば、今すぐにウィーセルの屋敷に向かいたかった。

 しかしガラクタ部屋から近い順に回れば、まずは小学校、続いて警察署、そして一番遠くにあるのがウィーセルの邸宅だ。

 はやる気持ちを抑えながら、俺はハンドルを握った。


   ◇


 警察署に着くころには、さらに二カ所から漏水が始まった。

 頭上の水柱は、全部で五本になった。


 警察署の周りは水浸しだった。

 道路脇の排水路を、今にも溢れそうな泥水が流れていた。

 逆流した水の圧力に耐えきれなくなったのか、いくつかの消火栓が破裂していた。


 職員の避難は終わっているのだろう。

 建物はひっそりと静まりかえり、ちょろちょろと流れる水の音だけが聞こえた。

 正面のガラス戸を押し開けると、くるぶしぐらいまで浸水しており、ふやけた書類がロビーの床を漂っていた。

 人の気配はなかった。

 別の場所を探したほうがよさそうだ──。そう思った時だ。


 こーん、こーん……。


 規則的な金属音が聞こえてきた。

 誰かが水道管をレンチで叩いているような音。

 俺はカウンターを乗り越えると、音のするほうに近づいていった。


 留置場は地下一階だ。

 流れ落ちる水で、階段はちょっとした滝のようになっていた。

 手すりにしがみつきながら、俺は階下に向かった。


 地下の廊下には、膝ぐらいまで水が溜まっていた。

 階段を降りてすぐの場所に鍵箱があり、独房の鍵が並んでいる。

 幸いにも流れは緩やかで、ざぶざぶと水をかき分けながら進むことができた。


 金属音は廊下の一番奥から聞こえていた。


   ◇


「……アスタルテ、トマロック。叔父さんを見つけたよ」

 トランシーバーに報告すると、二人はわあっと歓声を上げた。


「その声は……トビア、か……?」

 独房の正面は檻になっている。

 薄闇の向こうで、ホオリ叔父さんが顔を上げた。

 ずいぶん痛めつけられたのだろう。

 口の端が切れて、眉は半分削り取られている。

 血はすでに乾いていた。


「待たせたな。すぐに助けるよ」


 独房の扉を開けるため、先ほど見つけた鍵を一本ずつ試していった。

 叔父さんは壁際に立って俺を見ていた。

「みんなは無事か?」

「アスタルテとトマロックは無事だ。今、ユーノス号の出航準備を進めている。サラはウィーセルの屋敷で俺を待っている。そしてカネンスさんは──」


 小学校の黒板にあった書き置きを、俺は伝えた。

 警官二人を撃ったことは言わなかった。


 カチャリ――。

「……よし、開いた」

 俺が鍵を外すと、叔父さんは壁際に立ったまま肩をすくめた。

「すまないが、チェーンカッターを探してきてくれないか?」

 叔父さんは体をひねった。

 背後の給水パイプに、両手を手錠でつながれていた。

「ひどいな。……手錠の鍵は?」

「そこのトイレに捨てられてしまったよ。ここから逃げるには、この鎖をどうにかするしかない」

「分かった、何か金属を切れるものを探してくるよ。一階のどこかに用具倉庫があったはずだから──」


 俺の言葉は腹をえぐるような音にかき消された。

 伝承のなかの「雷」は、きっとあんな音がするのだろう。


 俺たちは思わず天井を見上げた。

「なんだよ、今の音」

「分からん。どこかのガスパイプが破裂したのか、それともドームに新しい穴が開いたのか……。待て、トビア。水をよく見ろ」

 膝のあたりの水面が、にわかに渦を巻き始めた。

「水が、流れている……?」

「それだけじゃない。水位が上昇している!」

 壁のひび割れに目をこらしながら、ホオリ叔父さんは言った。

 上階から流れる水の音が急に大きくなった。

「このままでは、お前も溺れて死ぬことになる。私を置いて早く逃げろ!」

「ふざけるな、何のためにここまで来たと思ってるんだ。待っていろ、すぐにチェーンカッターを見つけてくる!」

「いいやダメだ。増水が速すぎる。とても間に合わない!」

 言い争っている間にも水位はどんどん増していた。

 膝下だった水面が、膝と同じ高さに、そして膝上へと這い上がってくる。

「お願いだ、トビア。私のことは諦めてくれ!」

「くそっ! そこまで言うなら──」


 俺は拳銃を抜いた。弾は残り一発。


「……トビア、何をするつもりだ?」

「叔父さん、背中を向けろ」

「待て、トビア。考え直せ!」

「諦めてくれって言ったのは叔父さんのほうだろ! いいから、早くこっちに背中を向けろ!」

 首をすくめるような姿勢で、ホオリ叔父さんは背中を見せた。


 俺はためらわずに引き金を引いた。

 薄闇の中に火花が散り、手錠の鎖がはじけ飛んだ。


「まったく。トビア、お前ってやつは……」

「説教なら後で聞くよ。今はここから出よう」

 俺たちは水をかきわけながら廊下を進んだ。

「鎖に命中したからいいようなものの……。もしも狙いが外れて私に弾が当たっていたらどうするつもりだ」

「その時は言われたとおり、叔父さんのことは諦めていたよ」

「……トビア、本気か?」

「冗談に決まってるだろ。ほら、叔父さん。このトランシーバーは叔父さんのぶんだ」

 スプリンクラーが誤作動して、室内を土砂降りの雨にした。

 ずぶ濡れになりながら、俺は防水トランシーバーを渡す。

「俺はサラを迎えに行かなくちゃならない。叔父さんは──」

「ああ、私はカネンスを助けにいく」


   ◇


 警察署から出たときには、頭上から落ちる海水は六本に増えていた。

 目を凝らすと、北東ではドームと城壁の境目からも漏水が始まっていた。

 膨大な量の海水が、まるで滝のように城壁の表面を流れている。

「いよいよダメかも知れないな」

「ああ……」

 どちらともなく、俺たちは呟いた。


 俺たちは駐輪場に忍び込んだ。

 ずらりと並んだ警察の二輪車から一台を選ぶと、ホオリ叔父さんは造作もなく鍵を破った。

「今のうちに言っておこう。トビア、ありがとう。助けにきてくれて感謝している」

「縁起でもないことを言わないでくれよ。俺たちだけでも絶対に助かろう」

「ああ、そうだな──」

 ガラクタ部屋で落ち合うことを約束して、俺たちはそれぞれの助けるべき相手のもとに向かった。

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