Track #15 最後の日(6)


「──トビア、トビア! しっかりして!」

 椅子に縛られたまま、アスタルテが叫ぶ。


 震える手で、俺は拳銃をポケットに押し込んだ。

 アスタルテの椅子に近寄って、いましめを解いてやる。

 無理やりにでも体を動かし、手を動かす。そうしなければ、頭がおかしくなりそうだった。


 アスタルテはトマロックに駆け寄った。

「ああ、なんてこと……。なんてこと……」

 彼女は青黒く変色したトマロックの顔を抱き寄せた。

「な、泣かないで……ください……」

 目の位置が分からないほど腫れた顔で、トマロックは微笑んだらしかった。

「僕は……お、叔父さんとの……約束を守りました……」

「ええ、そうね……。今すぐケガを手当してあげるわ。トマロック、もう喋らなくていいの」


「なあ、トマロック。ユーノス号の整備状況を教えてくれ」


「トビア! この子はケガをしているのよ!」

 激昂しそうになるアスタルテを、トマロックがさえぎった。

「だ、大丈夫です」

 アスタルテの手を借りながら、彼はなんとか立ち上がる。

「整備は完了……しています。お、叔父さんに言われていたから、食料や交換部品も……積み込んで、あります」

「よかった。それなら二人はユーノス号に乗り込んで、いつでも出航できるように準備しておいてくれ」

 アスタルテが眉をひそめた。

「二人は──って、トビア、あなたはどうするつもりなの?」

「俺は、ホオリ叔父さんを助けて、サラを迎えに行ってくる」


「あたしも一緒に行くわ」

 彼女の声は震えていた。

「叔父さんと、それにカネンスさんも、助けないといけないでしょう」


「トマロックを治療するんじゃなかったのか?」

「えっと……。この子も一緒に連れて行くわ」

「バカを言うな!」

 俺はベランダを指差した。

 三本のすじになって降り注ぐ海水が、ドアの向こうに見えた。

「ホオリ叔父さんの言うとおり、天井の崩壊が進んでいる。海水の落下地点では濁流が渦巻いているらしい。下手をしたら、三人とも死ぬぞ?」

「あたしたちをここに残していくつもりなの!」

 二つの死体からは、じわじわと血だまりが広がっていた。

「あたしたちは家族なのよ。あたしたちから離れないで!」

「落ち着け、アスタルテ。いつもはもっと冷静だろ」

「あたしはいつでも冷静よ!」


「……よし、それなら聞いてくれ」

 なだめるような口調で俺は言った。

「ホオリ叔父さんは警察署に拘留されているらしい。サラはウィーセルの屋敷で俺を待っているはずだ。俺は二人を助けたい」


「カネンスさんは?」

 まだ語尾が震えていたが、アスタルテは徐々に落ち着きを取り戻していた。


「たぶん学校の生徒と一緒にシェルターに避難していると思うけれど……。よし、何ならカネンスさんも助けよう。とにかく俺はいったんこの部屋を離れないといけない。ここまではいいか?」

 胸に手を当てながら、アスタルテは小さくうなずいた。

「みんなを連れて俺が戻ってきたときに、すぐにユーノス号に避難できるようにしておいてほしい。トマロックと二人ならできるはずだ」

 アスタルテは大きく息を吸うと、目を閉じて天を仰いだ。

 祈るような表情で「わかったわ」と言った。

「だったらトビア、防水トランシーバーを持って行って。海中作業中に使う強力なやつが研究室にあったはずよ。あたしたちはユーノス号の操舵室で待っているから、何かあったら逐一伝えなさい。いいわね?」

 いつものアスタルテに戻りつつあった。


「あ、あの……。トビアさんは、ど、どう思いますか」

 おずおずとトマロックが口を開く。

「ユーノス号に、ひ、避難するとおっしゃっていますが……。やっぱりホオリ叔父さんの言うとおり、この都市は水に沈んでしまうと、お、思いますか?」


「分からない」


 というより考えたくなかった。

 ここは俺の生まれ育った場所であり、人類最後の砦だ。

 すべてが水圧に押しつぶされ、シェルターさえも水で満たされてしまう――。

 そんな想像はしたくなかった。


「でも、ユーノス号の中がいちばん安全だということは分かる」

 トマロックは顔をうつむけた。

「そうだ、お前の家族も一緒に──」

「い、いいえ。か、かまいません。僕の家族はシェルターの近くに住んでいるから、きっともう避難していると思います」

 トマロックは背を向けた。

 トランシーバーを準備しますと言って、研究室のエアロックを外した。


   ◇


 防水トランシーバーを二個と、念のために懐中電灯を一個。

 それらをポケットに突っ込んで俺はガラクタ部屋を出た。


 アスタルテとトマロックは、ベランダまで見送りにきた。

 摩天楼からは絶えずサイレンが鳴り響き、避難を呼びかけている。

 風の向こうに、ごうごうと流れる水の音が混ざっていた。


「俺が出かけたら二人はすぐにユーノス号に戻れ。研究室の扉には鍵をかけておくように」

「誰かが訪ねてきたら?」

「面識のある人間以外は絶対に入れるな」


 警官の死体は目立たない場所まで運んで、毛布を掛けてある。

 けれど食堂の床にはべったりと血の跡がついていた。

「そうね。これを見られたら何と思われるか分からない……」

 アスタルテはそう言うと、血溜まりから目をそむけた。


「俺は公会堂から帰る途中で、強盗に入られた家を見かけたよ。治安も悪くなっているんだ。知らない人間は疑ったほうがいい」

「こういう時こそ、知らない人間同士で助け合うべきだわ」

「その通りだ」

 俺はかぶりを振る。

「だけど、相手も同じことを考えているとは限らない。俺が戻るまで、どうかユーノス号を守ってほしい」

 アスタルテは観念したようにうなずいた。


 そして一歩近づくと、突然抱きついてきた。

 頭を俺の胸に押し当てる。


「お、おい──?」

「絶対に帰ってきなさいよ」

 頭を押しつけたまま彼女は言った。

「約束しなさい。みんなを連れて、絶対に帰ってくるって」

「……ああ、約束する」

 力強く答えて、俺は彼女の肩を叩いた。


 アスタルテはこんなに背が低かっただろうか――。


 そんなことを思った。

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