Track #14 最後の日(5)
街路に人影はなく、どの家も息をひそめるようにカーテンを降ろしていた。
森の木々が風にうごめいているだけで、俺の二輪車のほかに動くものはなかった。
視界が開けるたびに、霧に覆われた都市の北部が見えた。頭上に目を向ければ、相変わらず白線を引くように海水が流れ落ちていた。
ある家の前で、俺は思わずブレーキをかけた。
場所は公会堂とガラクタ部屋のちょうど中間あたりだ。
窓という窓が割られ、破れたカーテンが風に揺れている。
玄関のドアは開け放たれて、めちゃくちゃになった室内が覗いていた。
庭には子供用の三輪車が転がったままになっていた。
きっと、何者かに荒らされたのだろう。
ドームの天井だけでなく、都市の秩序も崩壊しつつあった。
◇
だから、ガラクタ部屋に着くころには悪い予感がしていた。
長い階段を昇りながら、様子がおかしいと感じた。
いつもなら空気の入れ換えのために、アスタルテが窓を開けている時間だ。
しかし鎧戸がぴたりと閉じられており、そのくせベランダには干しかけの洗濯物が放置されていた。
俺は銃を握った。
足音をしのばせて、ガラクタ部屋までの最後の数段を登る。
玄関のドアに耳を押し付けると、アスタルテの声が聞こえた。
「お願い、その子を放して。その子は──」
布袋を壁に叩きつけるような音。
消えそうなうめき声はトマロックのものだろう。
食堂の床をのしのしと踏みしめる足音が、一つ、二つ……。
「さあ、吐いてしまえ。我々だって、楽しくてお前を殴っているわけではない。素直に命令に従えば、すぐに解放してやる」
砂の詰まった箱を蹴るような音。
アスタルテが悲鳴を上げて、すすり泣きながら言う。
「お願い、トマロック……。お巡りさんの言うことを聞いて。このままじゃ、あなたは死んでしまうわ!」
銃を握る手が震えた。俺にも状況が飲み込めてきたからだ。
「さあ、早くそこのエアロックを開けろ! 我々を大型潜水艦に案内するんだ!」
研究室の扉は、いつもは自由に開閉できる。
しかし、いざというときは暗証番号式の鍵をかけられるようになっていた。
そして、その番号を知っているのは叔父さんとトマロックの二人だけだ。
「あまり手を焼かせると、後悔することになるぞ。我々はホオリ博士の発言が偏執的妄想だと証明しなければならんのだ」
公会堂での叔父さんの発言を嘘っぱちだと証明せよ──。ヘルモントに
要するに警官たちは、ユーノス号の加重還流充填器を壊しにきたのだ。
「ぼ、ぼくは……」
息も絶えだえなトマロックの声が聞こえた。
「……叔父さんとの約束を守る」
「貴様ぁ!」
肉を殴りつける音がした。
トマロックは声を上げることもできず、アスタルテの泣きわめく声だけが聞こえる。
助けなければ、と思った。
けれど心臓がバクバクと脈打つだけで、俺の膝は言うことを聞いてくれなかった。手のひらがぬるぬるして、何度も銃を握り直した。
「強情なガキめ、指をへし折ってやる」
「左手から一本ずつな!」
「何本目で根を上げるか楽しみだ」
「さあて、行くぞ――!!」
アスタルテがひときわ高い悲鳴をあげた時だ。
──がしゃん、どぉぉぉん。
くぐもった音が都市の空気をふるわせた。
北部の天井から新たに二つ、海水の滝が流れ落ちた。
この距離では地面を洗う濁流は見えなかった。
が、小さな丘が一つ、ゆっくりと崩れた。
まるで角砂糖に水を垂らしたように、あっけなく泥の塊になって霧の中に消えた。
「何だ、今の音は?」
「私が見てくる。お前はそのガキどもを見張っていろ」
一人の足音が食堂を横切り、こちらに近づいてくる。
俺は慌ててドアから耳を離す。
俺が隠れる場所を見つけるよりも先に、ドアが開いた。
「なんということだ……」
警官はドームの漏水に目を奪われて、ドアの脇で身体を縮こまらせている俺に気がつかなかった。
引き寄せられるように、彼はふらふらとベランダの手すりに歩み寄った。
悩む時間はなかった。
警官の後頭部に狙いを定めると、俺は引き金を引いた。
吹き付ける風に血しぶきが舞った。轟音だった。小さな銃身からは想像もできない大音響に、耳がきーんと鳴る。
男の脚から力が抜けて、ずるりと手すりに身をもたせかけて動かなくなった。
仲間の警官の叫び声が聞こえた。
「おい、どうしたんだ!」
耳鳴りが消えていなかった。
俺は身をひるがえして、ドアの中に銃口を向ける。
まるで時間が止まったように、すべてのものがゆっくりと動いていた。
荒れ果てた食堂が目に入った。
暗証番号を探したのだろう。食器棚の中身がすべて床に叩き落とされ、ひきだしというひきだしがひっくり返されていた。
アスタルテは椅子に縛り付けられていた。
涙と鼻血で、彼女の顔はぐしゃぐしゃだった。
トマロックは食堂の隅っこで、ぐったりと壁にもたれかかっていた。
顔は腫れ上がり、いつもの作業着でなければ、それがトマロックだと分からなかった。
胸の真ん中あたりが、カッと熱くなる。
もう一人の警官は、こちらに向かって駆け寄ってくるところだった。
突如現れた俺の姿に、彼は驚愕の表情を浮かべた。
目は見開かれ、口は「貴様は──」と言いかけて薄く開いている。
耳鳴りが消えず、俺の脳内を先ほどの銃声がぐわんぐわんと鳴っていた。
胸に灯った熱が燃え広がり、全身を焼く。
ああ、この熱は「怒り」なのだ──。
心のなかの理性的な部分がそう気づいたとき、俺はすでに引き金を引いていた。
弾丸は警官の顔に命中した。
鼻の左下あたりに着弾して、くちびるの肉と前歯を破壊しながら頭部を貫通した。
片方の眼球が、ぐるんっとありえない方向に回った。
ピンク色の脳のかけらが壁に飛び散った。
糸の切れた操り人形のように、男はくしゃりと倒れた。
まず聞こえたのは、自分の鼓動だった。
耳元をどくどくと流れる血の音に混ざって、自分の荒い息づかいが聞こえた。
アスタルテの声が聞こえてきて、ようやく人を殺したという事実がのしかかってきた。
「──トビア、トビア! しっかりして!」
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