Track #10 最後の日(1)


 そして最後の日が来た。


 後から聞いた話では、その時、アスタルテは階段をほうきで掃除していたらしい。

 トマロックはベランダに出て、ユーノス号の小さな部品に耐水塗料を塗っていた。

 ホオリ叔父さんは得意先に呼び出されて、ミジンコのロボットアームを修理していた。

 カネンスさんは教壇に立っていた。

 たぶんヘルモント・ウィーセルは会社の取締役室で書類にサインを入れていただろうし、彼の妻は自宅で新しいドレスに思いを馳せていただろう。


 都市に暮らす人すべてが、その時、それぞれの日常を過ごしていたはずだ。


 俺とサラは都市の東端の草原地帯で、芝生にマットを広げていた。

 ティーカップに琥珀色の茶を満たし、砂糖菓子をついばんでいた。

 見渡すかぎりに黄色い菜の花が咲き乱れて、その向こうに都市の全景を眺めることができた。


 最初は、サラがカップを落としたのだと思った。


 昼食のサンドイッチを取り出すため、俺が二輪車のカバンに頭を突っ込んでいたときだ。

 パリン――。

 背後から、涼やかな音が聞こえた。

 サラがティーカップを落として、割ってしまったに違いない。そう思った。屋敷から持ち出した高価なやつだから、きっと慌てているだろう。一緒に言い訳を考えなければ。そんなことを思いつつ、俺はカバンから顔を上げた。


 背後をふり返ると、サラが凍りついていた。

 口をきゅっと閉じて、顔は上空の一点に向けられていた。

 銀色の瞳で何かを見つめているような──。

 一瞬、サラが盲目だということを俺は忘れた。それほど彼女の表情は真剣で、眼には険しい光が浮かんでいた。手にはしっかりとカップを握っていた。

「なあ──」

「静かにして」

 サラは一心不乱に耳を澄ます。

 彼女の顔が向いているほうを見ると、上空から何かキラキラしたものが落下していた。

 かすんで見えるほど遠くだ。

 照明装置の光を反射しながら、その何かは都市の北部に墜落した。

 ドームの中で二番目に大きな街がある場所だ。


 舞い上がる土煙が、まるでおもちゃのように小さく見えた。

 少し遅れて、腹をえぐるような「どぉぉぉん」という轟音が聞こえた。


「なんだよ、あれ……」

「……たぶん」サラのくちびるは真っ白だった。「ドームの一部が崩落したのだと思う。いつもなら絶対にありえない場所から、何かの壊れる音が聞こえたの。ドームの天井から」


 菜の花が風に揺れていた。

 蝶や羽虫が、舞い遊んでいた。


 俺は無意識のうちに腕を伸ばしてサラの肩を抱き寄せた。

 ドーム北部の天井から目を離すことができなかった。


 ぱりん、がしゃん──!


 耳をつんざくような音に、俺とサラは身を縮こまらせた。

 さっき何かが剥落はくらくした位置から、今度は白く泡立つ海水が噴き出した。

 まるで、空中に絹糸で一本線を引いたような光景だ。

 海水は、地上までの三〇〇〇メートルを落下する間にバラバラに散らばり、白い濃霧となって街に降り注いだ。


 都市の滅亡が始まった。

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