Track #9 ミジンコ
サラが俺と会うことを、ヘルモント・ウィーセルは快く思わなかったようだ。
屋敷の廊下で娘とすれ違うたびに、ちくりと釘を刺すようなことを言ったらしい。
サラの継母はもっと直接的で、クズ屋の組合に連絡を寄越した。
ウィーセル家から注文があっても決して受領しないように、と。
けれど、そんなものは俺たちにとって大した障害ではなかった。
「トビア。あんた、どこに行くの?」
ある日の午後、地上に向かう階段を降りていたらアスタルテに呼び止められた。
彼女は窓から顔を出して、冷ややかな視線で俺を見下ろしていた。
「またサラさんと会うつもりでしょう。幼馴染みのよしみだから言うけれど……、少しは現実を見たほうがいいと思うわよ」
良家の箱入り娘と、どこの馬の骨とも知れないクズ屋の男が結ばれるはずがない。アスタルテの意見はじつに現実的だった。
「あんたがサラさんを大切に思っているのは分かるわ。でも、だからこそしっかりなさい。……傷つくのはあの子のほうよ」
ふん、と俺は鼻を鳴らした。
「傷つけるものか」
言い捨てて、階段を駆け下りる。
ガレージから二輪車を出して、モーターを始動させた。
トマロックが一晩で作ってくれた乗り物だ。
木漏れ日の道を、二輪車は軽快な音を立てて走り抜けた。
待ち合わせの場所は、屋敷から少し離れた交差点だ。サラが一度も転ばすに歩いてこられる最大距離だった。
ひと気のない交差点から、黒いローブをかぶった人物が飛び出してきた。
「っと、危ない」
「だって、トビアの近づいてくる音が聞こえたから」
ローブの下から、サラは無邪気な顔をのぞかせる。
「いつも言ってるだろ。じっと待っていろって」
「ごめんなさい」えへへ、とサラは笑う。「だけど、トビアと会えるんだもの。じっとしてなんていられないよ」
慣れた手つきで杖を折り畳むと、二輪車の後部座席にちょこんと座る。
俺の肩にしがみつき、片腕を振り上げて「出発進行!」と叫んだ。
俺は二輪車のアクセルを回す。
「サラって、そんな大きな声を出す人だったか?」
「あなたのせいだよ、トビア」
わたし、悪い子になっちゃった──。
サラはつぶやくと、俺の胴に腕を回した。
彼女の温かさを背中に感じた。
◇
ミジンコの
仲間の目を盗んでサラを連れ込み、俺のミジンコに乗せた。
ミジンコは一応、二人乗りとして作られている。
けれど私物が散らかっているせいで、ゆったりと座れるほどの場所はない。サラには、半分俺の膝に座るような無理な姿勢を取らせてしまった。それでもミジンコに乗りたいと言い出したのは彼女のほうだ。少しぐらい我慢してもらおう。
注水チェンバーに海水が満たされて、水圧計の目盛りが上がっていく。
前方の隔壁が開いて、俺たちを乗せたミジンコは海底に放り出される。
都市のあらゆる音が遠ざかる。
「どうだ、始めての海の中は?」
「うん……。思ったよりも、ずっとにぎやか」
魚や甲殻類の泳ぐ音、海面の氷河がきしむ音。
サラの耳には、きっと俺には聞こえない音まで届くのだろう。
「トビアは、どうしてクズ屋になろうと思ったの?」
「クズ屋になりたかったわけじゃない。ミジンコに乗れる仕事なら何でもよかった。学校を卒業したら本格的に働くつもりだ」
「ミジンコに乗れる仕事なら、何でも……」
「ああ。いつかあの海底山脈を越えて、ミタマクジラを捕まえに行くんだ」
「その時は……、わたしも一緒に連れて行ってくれる?」
狭い船内に甘い香りが広がっていた。サラの匂いだ。
俺が後ろから抱きしめると、サラは身をひねって体をこちらに向けた。
言葉は要らなかった。俺たちはくちびるを重ねた。
生命維持装置を残して、俺はすべての機器の電源を落とした。
モーターも、照明も、すべて。船内から雑音が消える。
ゆるやかで、はかないメロディが、俺たちを包んだ。
ミタマクジラの唄が聞こえていた。
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