Track #8 涙の味
屋敷の前でサラは立ち止まった。
門から玄関までは一人で平気だと言った。
生け垣に突っ込まないように、帰り道は俺がエスコートしたのだ。
「それにしても驚いたよ。ホオリ博士って、すてきな人だね」
「悪かったな、聞き苦しいものを聞かせてしまって」
「ううん、いいの。……なんだか、うらやましかったから」
子供みたいなケンカの何がうらやましいのか。
訊くと、サラは目を伏せた。
「なんていうか、『家族』って感じがしたの。ああやって、お互いの言いたいことを言える。それが本当の家族だよね……」
「前にも話しただろ。俺たちに血のつながりはない」
「でも、心はつながっている」
サラはにっこりと笑った。
感傷的すぎる言葉だと俺は思った。
俺なら、絶対に思いつかない言葉。
「じゃあ、気をつけろよ。俺はもう帰るから──」
「待って!」
銀色の瞳が、まっすぐ俺に向けられていた。
「わたし、まだ、あなたの顔を知らない」
つまり、声だけで俺を認識していたと言いたいのだろう。
「だから、えっと……。あなたの顔を、教えてほしいな」
「かまわないけれど、いったいどうやって?」
「こうするの」
サラは一歩近づくと、腕を伸ばした。
小さな手のひらが俺の頬を包む。
ひんやりと湿った感触。
驚くほど近い場所に彼女の顔があった。
ふわりと果物のような香りがした。
「そっか。これがトビアの顔なんだね」
「……あ、ああ」
「トビアの顔って、思ったよりも──」
「思ったよりも?」
「ううん、何でもない」とイタズラっぽく笑う。「だけど、お願い。もっと教えて、トビアの……」
サラはさらに一歩近づき、背伸びをした。
お互いの息がかかるような距離。
彼女のくちびるに吸い寄せられそうになる。
若い恋人同士なら「どちらが先に惚れたのか」で口論になるものだろう。
惚れた弱みを握られたら負けだから、お互いに、相手が先に惚れたのだと言い張る。ありふれた痴話ゲンカだ。俺とサラも例外ではなかった。
けれど白状すれば、俺がサラに魅せられたのはこの時だ。
屋敷の前で顔を寄せ合い、何も見えないはずの瞳に見つめられた。
あの瞬間、俺はサラを自分のものにしたいと思った。
俺はサラのものになりたいと思った。
くちびるが重なる直前、サラは不思議そうに首をかしげた。
「トビア、どうして泣いているの?」
冷たいものが頬を滑り落ちた。
俺はハッとして、ドームの天井を見上げた。
すでに夜の時間。照明装置は明かりを落とし、どこまでも暗い深海が頭上に広がっていた。
そして冷たい水滴がぽつり、ぽつりと降っていた。
涙の味の、水滴が。
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