Track #5 訪問


「ねえ、トビア。あれは誰かしら?」


 ベランダで洗濯物を干していたアスタルテが言った。

 俺は帳簿から顔を上げる。穏やかな午後だった。ガラクタ部屋の食堂にはコーヒーの香りが漂っていて、テーブルにはクズ屋の支払伝票が散らばっていた。研究室の気密ドアからは、トマロックの工作機械の音が聞こえてくる。


「誰か来たのか?」


 ベランダの窓越しに俺は聞いた。アスタルテはふり返らず、腰に手を当てて下界を眺めている。洗いざらしの白いシャツが風に揺れていた。

「ええ。だけど、ちょっと様子がヘンなのよね」

「ふうん」

 俺はペンを置いて立ち上がった。アスタルテの隣に立って地上を見下ろす。


 次の瞬間には、長い階段を駆け下りていた。


 白い杖で石畳の道を叩きながら、サラはふらふらと歩いていた。

 俺が声をかけると、彼女はパッと顔を輝かせた。

「よかった、やっぱりこっちの道であってたんだ」

 俺は辺りを見回す。

「まさか、あんた一人で来たのか?」

「そうだよ」とサラは胸を張る。「音で分かるの。まっすぐな道、曲がり角、交差点……。風の流れ方が違うし、音の響き方も違う。だから一人でも平気。ここまで迷わずに来られたよ」

 俺はため息をついた。

「だったら、この葉っぱは何だ?」

 ワンピースの肩についたカズラの葉をつまみ取る。

「えっと、それは……」

 サラのほっぺたが見る間に赤くなっていく。

 よく見ると、白いワンピースには緑色のシミが点々と飛び散っていた。

 土の汚れや、小さなひっかき傷も見つかった。

「……来る途中に、道路脇の生け垣に突っ込んだの。でも、一度だけだよ。本当に一人でも平気だよ!」

 杖を両手でぎゅっと握りしめて、懸命に平気さをアピールする。

 俺は肩をすくめた。

「わかった、そういうことにしておこう。それで、こんな場所まで何をしに来たんだ?」

 しゅん……とうつむくと、サラは上目づかいに俺を見た。

「迷惑、だった?」

 サラがこういう表情をするたびに、俺は彼女が盲目であることを忘れそうになる。

「あなたが言ったんだよ、ホオリ博士の作っているものを教えてくれるって。だから、わたし、来ちゃったの」

「ああ、そういえば」と俺は頭をかく。「分かった、案内するよ。そこを上がった場所が俺たちのガラクタ部屋だ」

 階段を登ろうとすると「ちょっと待って」と呼び止められた。

「あの、その……。わたしは目が見えないんだ」

「だから?」

「だから、手を引いてくれないかな」


 彼女の手はひんやりと冷たく、わずかに湿っていた。


「一人で平気じゃなかったのか」

「うん、平気」サラはこくこくとうなずく。「でも階段を登るときは、危ないかもしれないし……、念のため……」

 語尾がどんどん小さくなっていく。

 彼女の手を取って階段を登りながら、俺は苦笑した。

「よく一人でここまで来られたな」

「でも、生け垣には一度しか突っ込まなかったよ。本当に、一度きりだよ」

「分かったよ」

 サラは嘘が下手だ。


   ◇


 洗濯干しの手を止めて、アスタルテは一部始終を見ていた。

「ねえ、トビア。その子は誰?」

「ウィーセルさんところのご令嬢だよ」

 サラを食堂に引き入れつつ、俺は答える。

「お邪魔します」

「ウィーセルって、もしかしてガス会社の?」

 アスタルテは裏返りそうな声を出した。ちょっと待ちなさい、トビア、事情を説明しなさい──。慌てる彼女を無視して、俺たち二人は食堂を横切った。


 俺は研究室のドアのエアロックを外して、開けた。

 サラは嘆息した。

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