0割0分0厘

清水らくは

序章 0勝0敗

第1話

 奇跡、という言葉は信じたくなかった。一度それを味わってしまうと、期待してしまう気がして。

 弱いから負けた。強くなれば勝てる。それでいい。

 そう思っていた。

 けれども。高校生の時に、母親の悲しそうな顔を見て。父親が無理をして笑うのを見て。

 プロにならなければと思った。

 奇跡を手繰り寄せたい。

 ライバルが皆負けた。

 自力。初めての、上がるチャンス。そして優勢。

 腕の感覚がない。いや、体の感覚がない。盤面だけが動いている。

 勝てるはずの局面だった。プロが、近づいてきている。

 これまで逆転負けした記憶が、次々と蘇ってくる。

 僕は弱い。天才の中の劣等生だ。それでも努力をして、努力に努力を重ねて、何とか食らいついてきた。

 時計の音が聞こえた。手が震えていた。世界には、余分なものが溢れている。それを、感じられるようになった。

 詰んでいる。

 一筋の、確実に出口へと至る光。詰みからは、誰も逃れられない。

 詰んでいる。確かに詰んでいるとも。

 相手は、必死になって読んでいるふりをしていた。詰みを逃れる順があるかのように。こちらを惑わせるためだ。昇級はかかっていなくても、来期の順位には関係する。この1勝は、どちらにとっても軽くなどないのだ。

 倒れるな。意識を失うな。最後まで、指しきるんだ。

「……ました」 

 残り3手で詰むというところで、か細い声が響いた。投了の合図。

 勝ったのだ。

 そして僕は、プロになれる。



 僕は、県代表になったことがない。

 プロになるような人は、だいたい県代表の経験があるし、全国大会でも活躍していることが多い。だが、特に誰がライバルだったわけでもないが、僕はいつも二位だった。

 奨励会にも受からないだろう、とよく言われた。

 大人は残酷なもので、小学何年生で何段なら将来がどうだ、などと言う。これは将棋特有のことだ、と思う。小学生にプロを諦めさせる競技、と言うのは他に聞いたことがない。

 僕は、笑いながら怒っていた。今決めることじゃないだろう、と。プロになってやる。そしてこの地元を出て行く。

 僕は、奨励会に受かるための努力をした。入ってしまえば、こっちのものだ。

小学五年生の時も、県大会では負けた。けれども、奨励会には僕だけが受かった。



 あれから随分と経つ。僕はついに、プロになった。

 長かった、と思う。中学生でプロになる人もいる中で、今の僕は22歳である。同級生は大学を卒業するような年齢だが、この世界では「残りのチャンスを意識する」ことになる。25歳で、三段リーグは卒業である。リーグは一年に二回。つまり僕は、「あと6回」を意識する状況にあったのだ。

 何回もあるじゃないか、と思われるかもしれない。けれども、何十人と在籍するリーグの中で上位二人に入るのは、至難の業だ。なにより僕は、弱い方の三段だった。前期まではだいたい負け越し、良くて五割という成績だったのだ。今期初めて、昇級争いができた。

 偶然じゃない。馬鹿みたいに勉強したのだ。

 研究会はやめた。ネット将棋もあまり指さなかった。流行りの序盤、さらにはライバルたちの将棋を徹底的に勉強したのだ。

 効果はあった。強くなった実感はなかったけれど、相手は弱くなった気がした。

 おそらく、皆僕をマークしていなかった。それもよかった。

 虚を突いて、駆け抜けた。

 ゴールできたのだ。

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