第3章 0勝5敗

第8話


 何か、感触が違う。

 角を打てば詰み。そういう局面だ。だが、手のなじみ方がどうにも「角じゃない」っぽいのだ。

 見てみると、それは金だった。

「ええっ」

 思わず声が出る。チェスクロックの電子音が響く。駒台に手を戻し、つかみ直そうとするが、無情にも電子音が途切れた。

 僕だけじゃなく、相手も固まっていた。

 時間切れ負け。局面は勝ちだった、などと言ってもしょうがない。負けたのだ。今日は3勝できるかもなどと喜んでいたのが恥ずかしい。



 新四段特集ということで、しっかり僕も放送された。敗局のシーンも、である。そして、「いまだに勝ちのない冬染四段」とはっきり紹介された。

 そこそこ勝っている同期よりも話題になったようで、ネット上で自分の名前をよく見るようになった。ついには「フユウララ」というあだ名まで流行ってしまったのだ。もう、いいおもちゃである。

 まさに負けまくっている競走馬のように、応援されるようになった。だが、「最短引退候補誕生」というスレッドが某掲示板に建てられたことも知っている。

 バカにされている。プロになるだけでどんなにきつかったと思ってるんだ。

 だがやはり、勝たないことにはどうしようもない。負けるだけならば誰でもできるのだ。

 気が付くと僕は、真っ暗な部屋の中で泣いていた。悔しさではない、情けなさが溢れている。

 五か月間一勝もできず、それまで連敗していることすら話題にならず、プロ棋士としての存在意義は何だったのか。

 年度内はあと1戦しかない。このままでは、「勝率0割」になってしまう。

 いやもう、そんなことを言っている場合ではないのだ。

 一緒に研究してくれる人を探すしかない。恥を忍んでお願いするしかない。

 ええと、誰がいるだろうか。

 なかなか、思い浮かばなかった。これでも全く人付き合いを避けてきたというわけではない。かつて研究会をした人や、話をする後輩ぐらいはいる。いるはずだが、思い出せない。

 何かがおかしい。

 最近感じていた違和感。僕はあまりにもそのことが恐ろしくて、何回か頭を振って振り払おうとした。けれども、思いは飛んでいかなかった。

 対局中にも感じたことがあるのだ。「あれ、この局面最近見たはずだな?」「この変化、勉強したはずだけどな」

 考えたくないことだが。記憶力が、落ちている?

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