第23話

 誰も、僕には気が付かないと思っていた。

 僕の方も、皆を覚えていなかった。街中でも、声をかけられたことはない。

 だが、若田さんは僕を見つけた。

 千駄ヶ谷を歩いていると、僕に気づく将棋ファンがいる。

 僕を知っている人は、けっこうたくさんいるのだ。

 煩わしいとも、嬉しいとも思わない。ただ、驚く。

 僕は、なりたいものになるという、自分のことしか考えていなかった。しかし、見られる仕事を選んだのだ。たくさん負けて注目されて、それで見られていることに初めて自覚的になった。

 今日僕は、勝って注目されている荒砂君と戦う。

 彼はもう、見られることに慣れているだろう。すでにテレビ棋戦で何勝もしている。和服を着て、タイトル戦でも戦った。

 いろいろなことを経験している。僕はまだ、プロに1勝もしていないのに。

 今日の対局は、インターネットで中継される。見られるのだ。

 若田さんも見るだろうか。

 新しいネクタイをして、鏡を見る。ごく平凡な、どこにでもいて、どこででも埋もれそうな顔。この青年は、人気が出ないだろうな。

 今日はみんな、荒砂君を見るんだ。そうに違いない。

 僕は、家を出た。



 中継用の機材がある。

 いつもと同じ和室に、異質な機械たち。

 ただ、座ってしまえばそこには盤と駒しかない。

 すぐ後に、荒砂君は部屋に入ってきた。一礼して座ると、鞄から何本ものペットボトルを取りだす。

 早指しだぞ、と思ったがもちろん口には出さない。

 将棋には、観客席がない。人々の視線を、直接感じることはない。

 頭の中に、子供の頃に読んだ本の中身が浮かび上がってくる。もっとも鮮明に残る、将棋の記憶。僕が逃げ込んでいた世界。

 全てをぶつける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る