十五、濁流に呑まれて

 〈音念ノイズ〉には幾つかの種類がある。低級中級といった階級とは別の、性質による分類だ。

 すべての音念の基本形態であり、もっともよく見られるのが『停滞型』、いわゆる黒いもやの姿。

 階級が上がるごとに形態が増えていく傾向があり、中級以上から『擬人型』……文字どおり人間に似せた姿に化けるようになってくる。


 中には混合型とでも呼ぶべきか、複数の形態を使い分けるものもある。


「――らぁッ!」


 矮躯わいくを躍らせ、鳴虎は霧状に広がる音念を粉々に斬り刻んでいた。

 この『散開型』と呼ばれる形態は、霊体の結合密度がきわめて低く、体積が大きく見えるのはそのため。いわゆる分解に対しても一定の耐性がある。

 まったく無効なわけではないが、手数と速さで圧倒するのが適した対処法だ。


 そして、それこそが鳴虎がもっとも得意とする戦闘スタイルでもあった。ごちゃごちゃ考えて技巧をこらすのは性に合わない。


 だいたい視界が悪すぎる。間違って時雨たちを斬らないように、とは一応念頭に置いてはいるものの、薄っぺらな散開型にしては透明度が低いというか。

 もはや祓念刀に表示された恐鳴スペクター値を見ていないが、これは上級音念ボイスタラスだろう。早く救出しないと二人が危ない。


 ……ナギサは? あちらも別件で戦闘中だとしても、六ツ星の特務隊員をてこずらせるような強敵なんて――……。


(ああもう、嫌な予感)


 考えるのは後にして、今はこの闇霧を晴らすことに集中せねば。


 暗澹たる視界に怯むことなく突っ込んでいく。刀身が銀光を散らすたび影は薄くなる。

 まとわりつこうと伸びる凶手を、己の肌に届くよりも先に微塵に斬り落とす。この擬人化した部位パーツは霧状の本体ほど低密度ではない。

 ――ぎゃっ! ぎゃァ! 結合部位の破壊音悲鳴が時々あとに残って、音念の死を数えカウントする。


 最小の足踏みステップで角度を調整し、返す刀でもう一太刀。斬撃の速さだけは同期の匡辰まさときより上だと自負している。お互い得意分野が違うから上手く支え合っていた。

 そして今は一人でも充分やれるから班長位を任されている。総隊長終波先生の判断に違える結果を残すわけにはいかない。


「時雨! 蛍ッ!」


 闇のど真ん中を思い切り斬り散らせば、ドーナツよろしく大穴が空き、やっと通りの向こう側が見えた。

 けれど、そこに居たのは。


「……ッしまった」


 短い独白とともにナギサが音念の残骸を斬り飛ばす。鳴虎も残りの始末をつけた。

 すべての霧が晴れても、二人の姿はどこにもなかった。


 ――罠。


 恐らくは蛍を、自分たちから引き離すための。時雨は一番近くにいたから巻き込まれたとみるべきだろう。

 辺りを見回しても目に見える痕跡はない。つまり二人とも出血を伴うような怪我はしていないようだが、だからといって安心できるはずもない。

 こんなことをする相手は、その目的は、たった一つしかないからだ。


 蛍の命を狙っているという、例の〈騒念クラマー〉。


 咄嗟に取り出した恐鳴値計メーターはくるくる数字を回していた。今倒した音念の残留奏ざんがいが多すぎて、すぐには痕跡を辿れそうにない。

 急がないと蛍が危ないのに。彼女だけじゃない、時雨も。


 鳴虎が焦りながら残留奏を散らしていると、先輩の細い手に止められた。


「そんな暇はない」

「でもこの状態じゃ探せないし……!」

「わかってる。落ち着いて。……二人がどこに連れていかれたのか見当はついてます。急ぎましょう」

「えっ?」


 どこに、どうやって。なぜわかるの。

 疑問で埋め尽くされた頭の中に、ナギサの小さな呟きがぽつりと落とされる。


 ――鉦山ここは私の庭だもの。




*♪*




 この感覚を、何に喩えたらいいか。

 激流に揉まれて押し流されていくような――そう、まだ葬憶隊ミューターに入る前の幼い時分、市営プールに連れていってもらったことがある。そこで時雨が気に入って何度も一緒に滑った、あのウォータースライダーに似ている。

 なぜなら今も、あのときも、蛍の横にはぴったりと彼がいるから。


「っう……わ……ッ!」


 濁った悲鳴。痛いくらいの腕の力。上下前後左右を埋め尽くし、完全に二人を包んだ状態でぶるぶる震えているのは、流体スライム状の音念だろう。

 蛍は時雨に庇われた恰好だったから、衝撃を感じるのは右肩と右脚だけ。でも彼は、彼が今どんな苦痛を味わっているかは、その声でわかる。


 苦しい時間は存外長くは続かず、唐突に終わった。ただしスライダーの出口と違って、べちゃっと放り出された先には、何も緩衝材クッションなど用意されてはいなかったけれど。

 冷たいコンクリートの上に叩きつけられる。やはり主に時雨が。

 なんとか激流の中でも手放さずにいた祓念刀がとうとう指から離れ、地面に落ちてガシャンと叫ぶ。


「ッ……てぇ……、あ、蛍? だいじょぶか……」

「……」


 またこちらばかり心配する、少しは自分自身のことを省みてほしいと思いながら、蛍は痛む身体をなんとか堪えて時雨の上から退ける。彼が下敷きになっていたから。

 助け起こそうと伸ばした手に時雨は構わず、自力で起き上がった。無視されたようで胸の奥がちくりと痛い――……


「あーら、ずいぶん仲良しなのね」

「ッ!?」


 冷や水のような声にはっと顔を上げる。振り向いた先にそれがいた。


 白。

 長い髪とロングワンピース。すべてが白に塗り潰され、唯一の色は黄金の瞳だけ。

 でも、それはもう、六歳の少女をかたどってはいない。


 名前のない騒念クラマーは、十六歳……今の蛍と、まったく同じ姿をして、ごてごて積み上げられた箱の一つに座っていた。

 改めて見れば自分たちは倉庫のような場所にいる。人の気配はなく、ただ埃を被った資材の山に囲まれた、暗く渇いて冷たい空間に。


 足許をぞろぞろと流体音念が川のように蠢いている。一部は蛍たちの脚にまだ絡みついていた。


「あ……、ぁあ、ぁ……」


 初めて騒念を目の当たりにした時雨は言葉を失っていた。三白眼を見開いて、ぶるぶる震える瞳孔に、相棒そっくりの怪物を映しながら――。

 あるいはその光景を、古い記憶にダブらせて。


『しぐれちゃん、だいじょ……』

「んっふふ。そう、その子「しぐれちゃん」っていうのね。そんなに怖がらなくても大丈夫、何もしないから。……私の邪魔をしなきゃ、ね」



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