六、水には流せないこと

 さらさらと水が落ちる。蛍が石鹸を念入りに泡立てている間、時雨は給湯室の冷蔵庫をごそごそやっていた。


 一応そこに入っているものは来客用の飲み物やお菓子だが、そもそもお客さん自体あまり来ないし、お茶くらいなら許可を取らずに飲んでいいことになっている。もちろん『無断飲食厳禁』のシールが貼られたものは別だ。

 二リットル入のお茶のペットボトルを「ちぇ、これしかねーなー」と不満げに取り出した時雨は「蛍もいる?」と尋ねてきた。

 贅沢は言っちゃいけない。ジュースを選びたかったら食堂に行けばいいのだから。 


「今朝さぁ、めー姐がまたいきなりドア開けてくんの。あれマジでやめてほしいよな。オレが全裸とかだったらどうすんだよ」

「……?」

「喩え話です~。裸族じゃないです~。一応さ、ノックしたって言ってたけど、オレ聞こえてなかったし返事してねーの。それもうノックの意味なくね?」

「……、……」

「マジで? オレにだけ雑なの?? ……そういうさぁ……こーいっちゃアレだけど男ゴコロがわかってないとこが、ほら……マサ兄と結婚しそびれたん……」

「……!」

「ごめんて。わかった、めー姐には言わんから」


 時雨の宣言に蛍は鼻息荒く頷いた。

 子ども扱いされて腹が立つ気持ちはわかる。けれど、だからって本人が一番気にしているであろうことで攻撃するのは、人としてダメだ。

 誰あろう時雨にそんな卑劣漢になってほしくない。


 今はだいぶ持ち直して見えるけれど、破局した直後の鳴虎は荒れていた。任務中や支部では気丈にふるまいながら、寮の自室に帰れば毎日のように泣きじゃくっていたことは、慰めていた自分たちが一番よく知っている。

 だから時雨だって今も気を遣って、鳴虎の前では彼を『椿吹さん』と呼ぶのだ。本当は幼いころからずっと『マサ兄』なのに。


 それにたぶん、時雨の言い分も正確ではない。


「……」

「たしかに。マサ兄、まだめー姐のこと好きなんかな。だったらヨリ戻しゃいいのになー。そのほうがオレらも楽じゃん?」

「……」


 ここでいう『楽』というのは、彼女らが仲睦まじくしてくれれば自分たちも自由時間が増える、くらいの意味だ。実際、彼と別れてから鳴虎の口うるささは明らかに増した。

 時雨も蛍も十代の若者である。恩を感じていないわけではないが、保護者の監視がどうしたって鬱陶しい年頃だった。


 同時に、大切な姉分の幸せを、心から願ってもいる。

 言い回しが素直じゃないだけで、時雨だって本音はそういうことだろう。


 蛍も用意してもらったお茶を飲んでふうと一息ついた。

 今の自分たちが一番に憂慮するべきはどう考えても騒念の件だが、考えたところで何ができるわけでもない。だから代わりに他人の話題で時間を潰している。

 ……昨日の蛍と同じ。勝手に空蝉夫妻の事件について調べてしまったことは、きっと時雨に言うべきではないだろう。


「飲んだ? コップ貸して」


 気を遣ってくれたのか、珍しく時雨が率先的に洗い物をしだした。こういうときの仕草は鳴虎によく似ている。

 後ろ姿を眺めながら、また少し背中が広くなった気がする、とぼんやり思った。昔はほとんどなかった身長差が今やすっかり開いて、見下ろされていると思う瞬間が増えたし、たぶん彼は今後もまだ伸び続けるのだろう。

 成長著しい時雨を傍で見ていると、羨ましさとくすぐったさが胸の内で同時に沸き起こる。


 この背中にもたれたいと思ってしまう。きっと彼はちょっと驚く程度で、嫌がりもよろけたりもせず、平気で蛍を受け止めてしまうだろう。

 そろそろ甘えっぱなしでいるのをやめたいと、たしかに思っているはずなのに。


「……おっ? なんだよ~。もうちょいだって」


 こてんと頭を預けた蛍にそう言って笑う、時雨が優しすぎるのがいけない。

 とりあえず今だけ、そういうことにしておく。



 ……。

 そんなこんなで一息ついた蛍たちがロビーに戻ると、班長たちはまだ大喜利を続けていた。むしろ止めさせるかと思っていた鳴虎まで参戦している。

 他部署の人たちからの、どこか見守るような視線がふんわり痛い。


「う……ウズラ!」

「それはもう言っただろう。……カモメだったか?」

「女の子のはずだからトンビはないし……コルリはどう? それか二文字だったかも。トキとか」

「……めー姐まで何やってんだよ……。つーか『つぐみ』だろ」

「それだ!!」


 時雨の呆れたっぷりなツッコミに、鳴虎と匡辰が同時に振り向いた。性格は真逆なのにこういうところでよく息が合う。

 そのへんはかつて同じ班でコンビを組んでいたころの名残なんだろうか。


 蛍は苦笑しかけた直後、違和感に気付いた。こういうとき、いかにも真っ先に笑い声を上げそうな人が、黙っている。

 照廈班チームレッドのワカシ班長は珍しく真面目な表情で、視線を床に落としていた。何かを思い出そうとしているような角度だ。

 鳴虎たちもそれに気づいて、おや、という顔をする。


「え、……何あんた、なんか心当たりあんの?」

「えっ? あ~、……どうでしょ~? ――っと、おわ!?」


 なんとも都合のいいタイミングでワカシの端末が振動バイブした。画面を確認した彼は、頬の傷跡を引き攣らせて苦笑いを浮かべる。


「わ、終波ついなみ隊長がお着きあそばしたそーです。思ったより早かったなぁ」

「なんであんたに個別で連絡がくるのよ?」

「それは今日の午前に空いてる体だからじゃないです? めーこパイセン、そろそろ巡回入る時間でしょ。今は会議やってる暇ないですからネー。

 て、わけでボクはもう行きますのでっ。皆サマごきげんよー☆」


 そそくさとロビーを去っていくワカシを、残り四人はぽかんと見送った。……いや、間抜け面をしていたのは子どもたちだけで、班長二人は眉をひそめている。

 匡辰が「あれは心当たりのある顔だろう、逃げられたな」と呟き、鳴虎も頷いた。進展の兆しが見えたというには二人の表情は明るくない。


 蛍は時雨と顔を見合わせた。彼も状況が飲めていないらしく小首をかしげている。


「なんかあんの?」

「あるも何も、あいつの心当たりってたぶん家の関係だろうから……」

「?」

「二人は知らないのか。ほら」


 そう言って匡辰は腰に提げていた祓念刀を持ち上げてみせた。



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