十六、蛹の狂乱

 ……今、なんて言った?

 蛍はポカンとして騒念を見つめる。自分そっくりの真っ白な少女は余裕に満ちた微笑みを浮かべ、腰かけていた大きな箱からひょいと地面に降りた。

 床に触れた瞬間、裸足から靴下とラウンドトゥのバレエシューズに変わる。けれど足音はぺたぺたと鳴っていてちぐはぐだ。


「困るのよ。蛍、あなたがいると、私は安心できないの。わかる? わからないでしょうね」

『なに……』


 近付いて来ると、いっそう姿の相似を強く感じる。ほんとうに鏡を覗き込んでいるようだ。

 匡辰まさときに幼少期の己の姿だったと言われたとき、実のところ心のどこかで信じ切れずにいたけれど、もはや否定できる部分が完全になくなった。

 自分でも色以外の違いがわからない。完璧なコピーが目の前にいる。


 手を伸ばせば届くほどの距離まできて、そいつは髪をかき上げるような仕草をした。人間そっくりに。

 また祓念刀が異常音を鳴らす。つまり、これほど接近しなければ検知できないほど、音量を小さく留めているという意味でもある。


「あなたが『蛍』なら、私はもっと大きくて明るくて賑やかな光よね。花火とか? 流星群……もいいけど、名前にするには語呂が悪いかも。うん、花火のほうがいいな」


 そいつはにっこり笑って、白い手で時雨に触れた。


「帰ったら他の人にもそう伝えてくれる? 。私は今日から「花火ハナビ」って名乗るから、誰もハナビの邪魔はしな――」


 怪物の言葉はふいに途切れる。少女の顔のど真ん中に、鈍色の光が突き立てられていた。

 ぎぢッ……、と苦しげな音を漏らすそれは、一振りの祓念刀。

 上顎から後頭部までを貫いている凶刃の主は。手許から逆に辿った先の、肩の上にある顔は、時雨だった。


 鼠色の瞳を目尻が裂けそうなくらい見開いたまま、紅い筋を浮かべた眼球の表をぬるませて。


「……けんな……そのツラ、……蛍の顔で……んなふうに……ッ」


 ぐにゃりと〈ハナビ〉の顔が歪む。

 もちろん怪物は痛みを感じはしない。単に霊体の結合が緩んだだけ。


「ふざけたツラしがやって……オレの名前、勝手に呼ぶんじゃねえ、ぶっ殺すぞクソが……!」


 黒々と噴き出した、あまりにも刺々しい感情は、少年の身体じゅうから火柱のように迸った。


 爆発的に湧いた音念は、傍にいた蛍すらも容赦なく吹き飛ばす。

 気づけば後ろにあった箱の山に突っ込んでいた。幸い段ボールか何かの柔らかい素材だったので痛みは少なかったが、積み上げられていたそれが衝撃で崩れ、どさどさと上から降ってくる。

 暗転していく視界の中で、ハナビのものらしい笑い声が響いた。


「アハハハ、わぁ! いきなりこんな大きいの出せるなんてすご――」


 また言葉が途切れ、ぎゅる、と嫌な音だけがする。ぎゅ、ぎゅっ、と何度も、ひっきりなしに続く。

 蛍は必死にもがいて瓦礫から抜け出ようとした。脚のほうに重いものがあってどうしてもそれだけは退かせず、なんとか自由になったのは上半身だけ。

 這いつくばった状態で見上げた先に、どうしようもなく悲しい光景が広がっていた。


 自分から出た音念に全身まとわりつかれた状態で、構わずに祓念刀をめちゃくちゃに振るっている時雨がいる。ひどい顔をして、憎悪に満ちた唸り声を上げながら――またそれが音念を育てているのすら気にも留めずに。

 対するハナビは攻撃を避けていない。ほとんどダメージを受けないからだと、見ていてわかるほど余裕の笑みを浮かべながら。


『しぐれちゃん、ダメ、やめて……』


 今の彼にハナビを倒せる道理がない。それより先に彼自身が音念に呑み込まれてしまう。

 でなければ、あるいは。


「あーあ、もう。……別に痛くないけど鬱陶しいなぁ。っていうか、さっき言ったよね?」

「――がッ」


 一瞬でハナビの左腕が膨れて、時雨をはたき飛ばした。

 赤色が散る。白皙の幻影を染めることなく通り過ぎて、ぱらぱらと地面に降り注ぐ。雨垂れに似た音がした。

 数瞬遅れて、時雨を受け止めた資材の山がガラガラと大仰な音を立てて崩れる。


「“邪魔しないなら”何もしない、って。良い子にしててくれないなら、先にあなたを殺そっと。蛍は動けないみたいだし」

「……っ……う……」

『やめて、』


 膨れたままのハナビの左腕が粘土細工のように形を変えた。鋭く、より凶悪に。


『やめ……』


 身の丈ほどもある巨大な死神の鎌を模したそれが、身動きのとれない時雨に向かって、まっすぐに振り下ろされる。

 この手は届かない。立ち上がることさえできない。


 噴き上がった絶望の色が、蛍の視界を染めた。


『やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!』


 その瞬間、自分でもすごい力が出たように思う。あんなに重かった資材が簡単に退いて、箱の山を飛び出した蛍は、痺れたままの手足で獣のように地を駆けた。

 音も成していないくせに声帯が震えているのがわかる。息を出しきって一度空になった肺が、激しく呼吸を求めるのを無視して、蛍は時雨に縋りつく。


『やだ、やだやだッ、しぐれちゃん! しぐれちゃん、しぐれちゃんッ……』


 少年の身体は赤と黒の斑にぐったりと沈み込み、返事はない。帽子と髪に隠れてろくに表情も見えなかった。

 ただ、うっすら開かれた口から血が滴っているだけ。

 その上に透明なものが落ちる。蛍の半色はしたいろの瞳がどろどろに溶けて、そこから止め処なく滴っているのだ。


 嫌だ。信じたくない。耐えられない。

 ――時雨がいない世界でなんて、生きていけない。


 抑えようもない慟哭が腹の底から湧き上がってくる。でも、蛍がどんなに声を張り上げて泣いたって、あるのは無音ばかり――……。


「ァ……ァァア……、やめ……黙れ、うるさいッ……」


 奇妙な声にはっと振り返ると、ハナビが苦悶の表情を浮かべていた。元の形に戻った両手で、人間が耳を塞ぐのと同じような風情で、頭の両側を守るように押さえながら。

 白い身体の端が、風に吹かれた砂山のようにぼろぼろと崩れている……。


 まただ。この子の言うことがおかしいのは、これで二度目。


 時雨の名前を言い当てたどころか、ちゃん付けまでした。

 そして『うるさい』と言った。蛍に向かって。


 まるで心を読んだみたいに。あるはずのない『声』が、聞こえているみたいに。



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