六、緑色の古傷
「でッ!? 何すん……」
驚いて顔を上げた時雨は、捨てられた子犬みたいな眼を、蛍と視線がかち合うなり見開いた。
やっと気づいたからだ。蛍が、喉を震わせていることに。
『いいたいこと、いってよ。じゅんばんなんていいから、ぜんぶ、はなして。だまってるなんて、しぐれちゃんらしくない』
「あ……」
『でなきゃ……せめて、わたしをみて。わたしのはなし、きいて!』
清川蛍には、声がない。
だからどんなに叫んでも誰にも聞こえない。
本当にうんざりする。毎日毎日、伝えられなかった言葉たちが喉の奥に詰まっては、諦めたように腹の底へと落ちていく。
それを掬ってくれるのは時雨だけ。だから彼にだけは眼を逸らしてほしくなかった。
時雨が読み取ってくれなければ、蛍には本当の意味で『声がない』のだから。
話したい。なんでもいいから、自分たちの間に、音が欲しい。
「……悪い、なんかオレ、今日はどーも一人で考えこんじゃうっつーか。おまえが今日の案件に巻き込まれたかもしれんって思ったあたりから、すげーぐるぐるしちゃってさ。めー姐にもツッコミくらってんだわ」
「……、……」
「ん。じゃあ、お互い話そうぜ。今日あったこととか、思ったこと、……順番どうする? ジャンケン?」
「……。……、……」
「わかった。オレからな。ほら」
蛍は端末を受け取り、今日遭遇した音念と思しき妙な少女についての情報をまとめる。口頭で伝えるにはややこしいし、自分でも書き出して整頓がしたかったから。
彼女の細い指がタッチパネルの上を躍るのを眺めながら、時雨は後頭部をぽりぽり掻いた。
「んーと……蛍さ、どこまで知ってんだっけ。オレの親の話。めー姐に少しは聞いてるよな。
……うん。二人とも死んでる。オレさ、……そんとき、その場にいたんだ」
♫*・・・…
蛍と会ったのより、一年ちょっと前。オレは
父ちゃんは野球とかサッカーとか観るのが好きでさ、その日もオレたち二人でスタジアムに行って。観戦に興味なかった母ちゃんだけ家で留守番してたんだ。
本当に何の変哲もないフツーの日だった。少なくとも出掛ける時は、母ちゃんはいつもどおりに笑ってたと思う。
でも、そうじゃなかった。
帰ってきたら、母ちゃんが、母ちゃんを殺そうとしてた。
今でもわかんねぇんだ。どっちが〈
とにかくどっちも母ちゃんの顔で、片方が片方の首を絞めてた、ってことしか覚えてない。
その時のオレは、音念が母ちゃんを殺そうとしてんだと思った。今考えると、母ちゃんが音念を黙らせようとしてたのかもしんねえな、とも思う。
なんで見分けがつかなかったかって、……父ちゃんが咄嗟にオレを、外に放り出したからなんだよ。
もう全部一瞬で。気付いたらオレは締め出されてて、鍵もかけられてて入れなくてさ。すぐ横にトイレの窓ならあったけど背ェ届かねぇし。
だからドアを……あの緑色の
どんなに二人を呼んでも、返ってくるのは悲鳴だけ。
音念が喚いてんのと、父ちゃんたちが怒鳴ってんのがぐちゃぐちゃに混ざった叫び声が、アパート全体を揺らしてた。
でも、だんだん減るんだ。
……生きてる人間の声だけ、なくなってくのが、わかるんだ。
♪*・・・…
「……。オレ、音念が怖ぇから葬憶隊に入ったんだよ。祓念刀が……戦う手段が欲しかったから。自分もそうだし、周りの誰も、音念なんかに殺させたくねぇ。
……だからさ。蛍がオレ抜きで一人で戦うの、すっげぇヤダ……」
「……?」
「うん、そーだよ。こないだのアレ。あんなんがそうしょっちゅう出るワケねーって、頭じゃわかってんだけどさ……」
項垂れる時雨を見て、蛍は悩んだ。
今あの少女の話をしたら余計に彼を苦しめてしまうかもしれない。
事件のことは鳴虎から聞いていた。当時、通報を受けて駆けつけた葬憶隊員の中には、まだ新米だった彼女自身もいたそうだ。
自分自身の音念に殺されることを『思念自殺』という。ただこの呼称はあまり適切ではないという意見もある。
実際には当人に希死念慮がなくとも、音念による無差別の破壊に巻き込まれ、結果的に命を落としたと思われる人も含まれるからだ。
もちろん死んだ人が何を思っていたかなんて、誰にも本当のところはわからないけれど。
……、死んだ人、か。
蛍は深呼吸してから時雨の手を突いた。それから書き溜めたメモアプリの画面を、彼に向ける。
『今日 この間と似た状況になった
音念が二体いて 共食いしてた』
そこまで読んで一旦スクロールする手を止めた時雨は、深い溜息を吐く。
「マジか……いや怪我人出たって時点でそんな気はしてたけどさぁ……」
そこから先は無言だった。淡々と読み進めていく時雨の横顔をじっと見つめながら、蛍も思い返す。
今日見聞きした、いくつかの奇妙なできごとを。
少女の言動。音念としては異様ともいえるほど高い知性と、独特の容姿。
自分だけでなく
そして何より少女が蛍に向けた、理由はわからないが明白な殺意と――彼女が口にした『つぐみ』という名前。
もちろん聞き覚えはない。しかし、そもそも蛍は自分自身のことすらすべて知っているとは言い難い身の上だ。
つまり――時雨と出逢う前の、『清川蛍』になる前の自分のことは、何も知らない。
あの音念の言動に整合性があると仮定すると、幼少時の蛍はその『つぐみ』なる人物と関係があったのだろう。外見が似ているとすると親族である可能性が高い。
その人を調べれば、蛍が本当はどこの誰なのか、わかるかもしれない。どうして記憶をなくし、河川敷に倒れていたのかも。
あるいは……もしかすると、声が出ない理由も。
喉の不具合の原因がわかれば治療ができる。そうしていつかは自分の声で、時雨に感謝を伝えられるかもしれないのだ。
何にせよ、真実を知りたい。知らなくてはいけない。……そんな気がする。
きっと同じことを思ったのだろう。蛍の手に端末を返しながら、時雨は小さく頷いた。
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