九、街の掃除屋
長い廊下の彼方で電話のベルが鳴っていた。日中の屋敷は人気が少ないからよく響く。
ややあって新人の
単純に邸内を走るのは行儀が悪いからだが、つい先日、絨毯を秋冬用の毛足の長いものに替えていたからでもある。見栄えはいいが転びやすいのだ。
「どうした、そんなに慌てて。危ないだろう」
「すみませんッ……あ、あのっ、おかしな電話が……」
「何? 旦那様宛にか」
「い、いえ、それが……
「私に? ……相手は名乗ったかね?」
「はい、いえ、ええと」
メイドは急に我に返ったような顔をして、もしかしたら単なるいたずらかもしれませんけど、と小さな声で言った。
どうだろうか。この家にいたずら電話をする愚か者は少ないし、それもわざわざ使用人頭の名を挙げる――つまり内部の事情を知る人物となると、もっと心当たりが少ないが。
「いいから言いなさい。相手は誰だね」
「えっと、……掃除屋って言ってました。でも清掃業者って感じじゃなくて……」
怯えるメイドとは対照的に、本俵は噴出した。
急に相好を崩したものだからメイドはぎょっとして上司を仰ぐ。邸内の一切を取り仕切る立場上、日頃なるべく厳格に振る舞ってきた本俵としては、これは充分に失態だ。
けれどもう笑ってしまったものは仕方がない。せめてと深く息を吐きぬいて、横隔膜の痙攣を落ち着かせる。
「……ああ気にするな。それなら
「はっ、はい」
「よろしい。ではこの件は他の者には内密に」
*♪*
退院してそろそろ四日になる。痛みもほとんど気にならない程度まで落ち着いていたので、蛍はすでに任務に復帰していた。
幸いあれから大きな事件もなく、のんびりした日々が続いている。
……同時にそれは
でも、少なくとも無関係な事件もないのだから、それ自体は悪いことではない。巡回によってそこらの道端に蠢いている低級
とはいえ繁華街を歩けば話は別だ。店外まで垂れ流しになっている有線放送のBGMに、まだ日が沈む前から酔っぱらっている人の笑い声が混ざり、駅前とはうってかわって騒々しい。
こういう場所は正直ちょっと苦手だな、と蛍は思う。
賑やかなのはむしろ好きなほうだけれど、なんというか、ここはあまりにも雑多な音が溢れすぎている。どの音を聞けばいいかわからなくて、少し疲れるのだ。
……それに
「おぉ、んだよ。女ばっかりじゃん」
どうも素面じゃなさそうな声を上げた男の人は、無遠慮な眼差しで蛍たちをじろじろと
残り三人のうち二人も一緒になって「葬憶隊って女少ないんじゃなかったのかよ」「え~、こんなんだったら俺も入ろっかな~」などと囃したてながら、ゲラゲラ笑う。最後の一人もようすを見ているだけで、止めそうな気配はない。
鳴虎が目配せして、時雨がなんとなく蛍の腕を引いた。自分のうしろに隠そうとしているみたいな動きだ。
気遣いがありがたくないわけではないが、自分だけ庇われるのも違う気がしたので、蛍はやんわりその手を拒む。
たぶん少し意外な反応だったのだろう、時雨がちらりと、少し心配そうな色を浮かべてこちらを見た。大丈夫、とアイコンタクトを返す。
ところで、女ばっかりと評されたのには訳がある。もちろん萩森班は三人中二人が女性隊員なので、元からたしかにそうではあるが、今日はさらにもう一人いるのだ。
ロングヘアとマキシスカートをたなびかせた特務隊の麗人、
鳴虎とナギサは互いをちらりと見合って『無視しましょう』という視線を交わした。ちなみに立場上このチームの指示権は班長の鳴虎にあるが、葬憶隊員としてはナギサのほうが先輩にあたるそうだ。
ともかく上二人がそう決めたのだし蛍にも時雨にも反対する理由がないので、お姉様方に従って無言で通りを進もうとした。……が。
「ちょ、おねーさんたち、無視しないでよぉ。葬憶隊って公務員でしょ~?」
「そーそー、俺たちちゃんと税金払ってる市民よ市民。だったらもうちょっと態度ってもんがあんでしょーよ。つか愛想悪すぎね? 挨拶くらいしろよ」
「ギャハハ、おめーら酔いすぎ。仕事中に絡んじゃカワイソーじゃん」
恐らく四人の中で一番小柄だからだろう、鳴虎の腕が掴まれた。それで他の三人の意識が彼女に向いた隙をつき、気づけばもう一人が蛍の背後に立っていて、……避ける暇もなく肩を抱かれる。
「ッ!?」
「てかこの子まだJKっしょ? 若いのにお仕事しててエライじゃ~ん」
「おいっ……!」
「バカやめろよ、泣きそうになってんぞ。ハハ、ごめんねぇ、てか君かわいいね」
「出たよロリコン発言~」
さすがに怖くて固まってしまった。鳴虎もまだ掴まれたまま、どう出たものか考えあぐねている風だ。
葬憶隊は公的に武装を認められているが、当然ながら制限がないわけではない。むしろ治安を守るための組織として、職務外での抜刀は固く禁じられており、戦闘が認められるのは自身や救助対象者の生命に危険が及んだ時のみとされている。
つまり丸腰の一般人相手では、手も足も出ない。
時雨もそれがわかっているから、声を荒げて思わず祓念刀の柄を握っても、抜くことはなんとか堪えている。そのポーズさえ通報されれば危うい立場だ。
(どうしよう……)
刺激せずに、うまく肩から手を離してもらうにはどうすればいい。こちらは声すら出せないのに。
震えそうになるのを堪えようとして身体が強張る。かすかに漂うアルコールの匂いに、泣きたくないのに目頭がじんとして、ぐっと拳を握り込んだ――そのとき。
目前に銀色の光が散った。
それが祓念刀の軌跡だと気付くのに、数瞬かかった。
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