五、その少年は屈託がない

 配膳を待つ間も、時雨はずっと喋っている。

 彼は生来黙っている時のほうが少ない。相槌すら打てない蛍はひたすら聞き役だが、よくそんなに話題があるなと毎日感心している。

 静寂はほとんどの場合、訪れない。いつも蛍の分まで彼が賑わいを担保している。


 ――ちなみにここは例のうどん屋。謎の再来店リベンジを果たしていた。

 注文内容も同じで、やはりお互い制服姿。敢えて違う点を挙げるなら、今日は手足や額に包帯やガーゼが貼られている。


「いただきま~す」

「……」


 涼し気なぶっかけうどん(ミニ天丼付き)と、ほこほこ湯気の立つカレー南蛮うどんを前に、二人一緒に手を合わせる。

 挨拶は日本人のこころ。食材だって生きものだ。人間には聞こえないが、野菜が音を発するという研究結果もある。

 それをいただいて我が身の糧とする宣言には、生命への敬意がある。


 いざ、ひと口め。彩り鮮やかな葱とかまぼこを湛えた芳ばしい赤茶色の沼から、黄金に染まった麺を引き出して、ずるりと啜――


「……ッ」

「だいじょぶか。ほい水。おまえほんとすぐ火傷するよな~、知ってる? それ単に食うの下手なだけらしいぜ。……はは、怒るなって、ゴメンて。先に天丼食ってな。そうすりゃ冷めるし、ていうかオレがちょっと食っててもいいや、適温になったら返してやるから」

「……」

「大丈夫だって食い尽くさねぇよ! ははは。あ、つかさ、次はおまえもぶっかけにすりゃいいじゃん。冷たいうどんも悪かねえぞ、とくにここのは。マジだって。ちょっと食ってみ、それ」


 ああ、彼は喋るばかりでちっとも箸を動かしていない。口パクで「たべて」と指摘すると、彼はニヤけ顔の横で割り箸をパチンと鳴らした。……行儀悪いよ。

 いや、回し食いの時点でもともと行儀は良くないが。

 鳴虎もいれば雑談に加わってくれるから、ここまで時雨の一人語りワンマンライブにはならないのだけれど。今日はどう考えても大した用事なんかないくせに「二人で行っておいで~」と悪い笑顔で送り出されている。


(無理に話し続けなくていいよ。私は、もう怖くないから)


 声がなくても大体は通じるのに、一番肝心な言葉だけはどうしても届かない。


 うどん屋を選んだのは、ここが町中華の代わりになるのは、どちらも啜って食べるものだからだ。静けさを品位とする洋食と違って音を立てることが礼儀マナー、ゆえに店内には食事の音が満ちている。

 自分で声を出せない蛍は、かつて沈黙に怯えた。それをよく知っている少年は、ゆえにラーメンを好むようになった。

 彼の気遣いを汲んで、その意に沿うためにここを選んだことも、たぶん時雨はお見通し。


『オレおまえの保護者のつもりだよ、知らんかったんか』


 恐ろしいほどのお人好しだ。どこの誰とも知らない人間を、最初に自分が見つけたからといって、守らねばならないと信じ込んでいる。


 十年ほど前、蛍は河原に転がっていた。流木か小石のように。それ以前の記憶はなかったから、名前も時雨につけてもらった。

 唯一の所持品が蛍石フローライトのペンダントだったから、それで蛍。誕生日の代わりに出逢った日付を記念日にした。


 養護施設に引き取られる道を拒んだのは、時雨と離れたくなかったからだ。

 蛍にとっても彼が世界で最初の存在だった。静寂しか生み出せない自分のために、たくさんのおとをくれるひと。

 時雨が〈音念ノイズ〉殺しの道にいるから、蛍もその横を歩きたいと願った。少しでも恩返しがしたかった。


 なのに、まだ、彼は保護者を自認している。それがどれほど口惜しいか、知らぬ時雨ではないだろうに。


「う~わ本当にあちいなこのカレー、つかけっこうからッ。でもさ、ここでおひや飲んでも無意味なんだよな、辛味って水に溶けねえんだもんな。しかしわかってても飲みたいのが人情だろ」

「……」

「あ~天丼さ、海老食っていいからナスはオレに残して。ナス大好きだから。……サンキュー蛍おまえも大好き♪」


 何気なく発された言葉に心臓が跳ね上がった。痛いほどの鼓動は、どうか彼には聞こえませんように。

 それともわざと言ってるなら相当意地悪だと思うけれど、時雨が蛍の気持ちに気づいているかどうかはまだ未知数だ。

 伝えたくても声にならない、文字にするにはまだるっこしい、この想いは。


 カレー南蛮を返してもらえないのでぶっかけうどんを少しもらう。香りのいい出汁は甘口で、麺はコシが強い。

 もちもちした食感がなるほど美味だ。時雨が推すのも頷ける。


 頬を綻ばせて咀嚼する蛍を見て、少年は満足げに「な、けっこー美味いだろ?」と笑った。


「そろそろ交換な。カレーもだいぶ冷めたし」

「……」

「おい拒むな、ぶっかけは元々オレのでしょー!? ったくもー、あとひと口だけだかんな、……ほれ返せ返せ!」


 なんてじゃれ合いながら、おだやかな食事を楽しむ。


 二人とも負傷中だから他の班が優先的に出ることにはなっている。それでも、絶対に呼び出されないとは限らない。

 だから祈った。今日はどうか、せめて食べ終わるまでは警報が鳴りませんように、と。


 この何もない時間が、かけがえのないものであることを知っている。いつ命が尽きるともしれない任務に身を置いて、恐怖と隣り合わせで刃を振るうからこそ、自分たちは一人ではないと強く感じたいのだ。

 蛍の隣には時雨がいてほしい。時雨の隣に居させてほしい。

 これからも一緒に戦って、一緒に生きたい。



 昼下がりの店内は賑やかだ。誰かが笑い、箸を割って、麺を――真心によって捏ね上げられた命を啜る。

 誰も傷つけない優しい音が、ここには満ちている。



(結)

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